EXHIBITIONS
辰野登恵子展
ANOMALYで「辰野登恵子展」が開催されている。
辰野登恵子が亡くなった2014年から10年が経ち、いまなお多くの関連展示が開催、予定されている。本展は、1994年に制作された大型のキャンバス作品を軸として構成。パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂に感動したエピソードや「ブルーは自分の色」とインタビューで語っているように、青は辰野にとって特別な色であった。この青を用いたキャンバス作品とともに1970年代の初期作品から晩年の2011〜2012年にパリの版画工房IDEMで滞在制作したリトグラフを含め、辰野の仕事にとって重要な役割を担っていた様々な版種と時代の版画作品を展示。
1950年長野県生まれの辰野登恵子は、一貫して抽象表現の平面作品を制作、つねに第一線で活躍してきた。東京藝術大学の油絵科在学中、柴田敏雄、鎌谷伸一とともにグループ「コスモス・ファクトリー」を結成、抽象表現主義全盛期の後で「キャンバスに筆で描くことが完全に古いと思われていた」時代に、アンディー・ウォーホルやロバート・ラウシェンバークから影響を受け、シルクスクリーンの版画制作からそのキャリアをスタートさせる。1970年代にはグリット(格子)を用い、反復の中に差異をつくることによって新しい空間が出現する作品を制作、自身の作品に手応えを掴む。1980年代以降は、絵画的な秩序の中で制約しすぎることをやめ、「イメージの世界から来た」丸や四角など単純で幾何学的な形の連続と強い色や筆触がせめぎあう、有機的な油彩画やアクリル画を数多く発表した。同時に、絵画の世界と往来するかのように、銅版、木版、リトグラフ、シルクスクリーンなど様々な版画制作に積極的に取り組み、「並走するいっぽうで、時に、ある決定的な瞬間には前に飛び出して先導することも厭わない同伴者」として、100点以上の版画作品を残している。
「絵画でしか起こり得ない空間意識を持って、独特なものにしたかった」と語る辰野のつくり出す抽象的なモチーフは、現実世界の重力・引力に似せた図式を持ち、独自の絵画空間を私たちの前に出現させる。本展は、抽象表現主義、ポップアート、ミニマルアート、ニューペインティングなどの潮流を冷静に観察しながら、絵画の在り方を探究し続け、独自のスタイルを確立した辰野登恵子とその作品を知る一端となる。
辰野登恵子が亡くなった2014年から10年が経ち、いまなお多くの関連展示が開催、予定されている。本展は、1994年に制作された大型のキャンバス作品を軸として構成。パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂に感動したエピソードや「ブルーは自分の色」とインタビューで語っているように、青は辰野にとって特別な色であった。この青を用いたキャンバス作品とともに1970年代の初期作品から晩年の2011〜2012年にパリの版画工房IDEMで滞在制作したリトグラフを含め、辰野の仕事にとって重要な役割を担っていた様々な版種と時代の版画作品を展示。
1950年長野県生まれの辰野登恵子は、一貫して抽象表現の平面作品を制作、つねに第一線で活躍してきた。東京藝術大学の油絵科在学中、柴田敏雄、鎌谷伸一とともにグループ「コスモス・ファクトリー」を結成、抽象表現主義全盛期の後で「キャンバスに筆で描くことが完全に古いと思われていた」時代に、アンディー・ウォーホルやロバート・ラウシェンバークから影響を受け、シルクスクリーンの版画制作からそのキャリアをスタートさせる。1970年代にはグリット(格子)を用い、反復の中に差異をつくることによって新しい空間が出現する作品を制作、自身の作品に手応えを掴む。1980年代以降は、絵画的な秩序の中で制約しすぎることをやめ、「イメージの世界から来た」丸や四角など単純で幾何学的な形の連続と強い色や筆触がせめぎあう、有機的な油彩画やアクリル画を数多く発表した。同時に、絵画の世界と往来するかのように、銅版、木版、リトグラフ、シルクスクリーンなど様々な版画制作に積極的に取り組み、「並走するいっぽうで、時に、ある決定的な瞬間には前に飛び出して先導することも厭わない同伴者」として、100点以上の版画作品を残している。
「絵画でしか起こり得ない空間意識を持って、独特なものにしたかった」と語る辰野のつくり出す抽象的なモチーフは、現実世界の重力・引力に似せた図式を持ち、独自の絵画空間を私たちの前に出現させる。本展は、抽象表現主義、ポップアート、ミニマルアート、ニューペインティングなどの潮流を冷静に観察しながら、絵画の在り方を探究し続け、独自のスタイルを確立した辰野登恵子とその作品を知る一端となる。