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REVIEW - 2018.12.9

辰野登恵子の絵画はいかに展開したか?
沢山遼が「辰野登恵子 オン・ペーパーズ」展を読み解く

規則的なパターンを用いた版画や、有機的な形象が特徴的な独自の抽象表現で知られる辰野登恵子の個展「辰野登恵子 オン・ペーパーズ」が埼玉県立近代美術館で開催中だ。とりわけ大型の油彩が高く評価されてきた辰野だが、版画やドローイングなど紙の上の表現に光を当て、その画業の再検証を試みる本展から見えてくるものとは何か。美術批評家の沢山遼が論じる。

文=沢山遼

WORK 80-N-1 1980 紙にシルクスクリーン 撮影=大谷一郎 ©︎辰野剛、平出利恵子

WORK 80-N-1 1980 紙にシルクスクリーン 撮影=大谷一郎 ©︎辰野剛、平出利恵子

グリッド/斜行/アクソノメトリー

 2014年に逝去した画家・辰野登恵子の紙の仕事を回顧する展覧会が、埼玉県立近代美術館で始まった。おそらく本展は、これまでの辰野の展覧会史のなかで、もっとも重要な企画のひとつに数えられるだろう。

 それにはいくつかの理由がある。ひとつには、辰野の仕事において、紙という支持体が、キャンバス作品に対して副次的・補助的な位置にあったのではなく、70年代の彼女の仕事の多くが、シルクスクリーンによる版画やドローイングによって占められているからだ。また、辰野に関する従来の批評家たちの言説が、80年代初頭の装飾的モチーフが登場する絵画、あるいは80年代後半から開始される彫塑的ヴォリュームが発現して以降の絵画を、70年代のミニマリズム的なグリッドやストライプの仕事からの変節・転向とみなし、そこに通底する問題意識の持続に、特別な関心を払ってこなかったことが挙げられる。さらに酷い場合、こうした辰野の展開は、ミニマリズムからニュー・ペインティングの時流に従うものとされた。そのため本展は、辰野の紙の仕事とキャンバス作品を比較検討することを可能にするのみならず、これまで全貌を開示することのなかった70年代の仕事を検証する貴重な機会となった。

会場風景

 辰野は、1968年に東京藝術大学油画科に入学した。だが、入学時より彼女はキャンバスに絵画を描くという選択肢を選ばず、アンディ・ウォーホルの影響下に、写真製版のシルクスクリーンによる版画作品からその作家活動を開始した。70年代の辰野の仕事では、ノートの罫線や方眼紙、タイルのグリッドが主要なモチーフとなった。これらの仕事は頻繁に、同時代のミニマリズムやアグネス・マーティンの絵画に結びつけられてきた(だが、当時の辰野はマーティンについて知らなかった)。

 辰野とマーティンに共通するものがあるとすれば、両者の絵画において、絵画が主体的経験ないし知覚の投影面として存在しているのではなく、主体に先行して、絵画面をレディメイドに組織化する座標が存在していることだ。辰野の絵画においては、それがノートの罫線やタイルや方眼という具体的な参照項を伴うことで、規格化された作図法的厳密さの非−描写性が絵画面に与えられる。あらゆる経験に先行する、先験的に組織された基底面を立ち上げることが絵画制作の動機となることにおいて、辰野とマーティンの作品はたしかに共鳴していると言えるかもしれない。それは、この座標なくしては観者ならびに画家の主体的経験の対象化も、客体としての絵画面も存在しえないような、知覚と物質双方の立ち現れを同時的に準備する下部構造(インフラ)である。

 そのため当初より辰野の版画作品に見られるのは、主体の知覚経験に先行して絵画に潜在する基底面に張りめぐらされた座標の指標的な決定性を用いて絵画をつくり出すことだった。言い換えれば、辰野における罫線や方眼(ストライプやグリッド)は、それ自体がイメージであるとともに、絵画の隠された、潜在的な基底面の構造それ自体を指示する。加えて辰野の初期の版画作品では、それらを版として複数化し、重ねたり、ずらしたりという作業が頻繁に見られる。

D74-4 1974年 紙にシルクスクリーン 撮影=大谷一郎 ©︎辰野剛、平出利恵子

​ 例えば《D74-4》(1974)などの版画作品において、辰野は複数の版の位置をずらして刷り、複数の版を累積させることで、転写されたドットが部分的に重なり合いながらずらされ、モアレ状に重層する絵画空間をつくり出している。あるいは《WORK 77-D-10》(1977)では、向かって右から(1)ブルー系のノートの写真、(2)ピンク系のそのネガ、(3)ノートを鉛筆で模写したモノクロームの絵のそれぞれが、位置を変えながら滑動する。このとき行われているのは、たんなるイメージのズレや重層ではない。辰野はここで、紙(ノートのページという単位)という基底面自体を複数のイメージ類型に分解し、かつ反復的に連続させているのである。それは辰野の仕事において絵画空間が、イメージ(=図)の重層ではなく、基層となるプレート、潜在的基底面(=地)の重層・ズレによって複数化されることを示唆する。

WORK 77-D-10 1977 紙にシルクスクリーン 撮影=大谷一郎 ©︎辰野剛、平出利恵子

  つまり辰野の絵画において、下部構造となる基底面は、絶対的なもの(一元化されたもの)ではなく、複数に階層化(レイヤー化)され、その都度レイヤーとレイヤーの間に潜在的な断層をはらみうるものとして扱われる。そして、その階層の複数性こそが、複数の絵画面の累積化、重層化を可能にするのだ。マーティンは、ドローイングという、線の重なりがゆるい織物のように重なり累積的に可視化される手法を追求したが、いっぽうで辰野は、基底面の階層化という手立てを、版画という表現自体に潜在する特性に求めることになったのである。

 そのため、辰野の制作において、「版」という技術に特権的に現われる複数の版の差異化や積層と、絵画空間の創出は深く結びついている。その意味で、彼女がウォーホルの版画を参照することによって仕事を開始したことは重要である。なぜならウォーホルもまた、意図的に版ズレの効果を駆使したことで知られるからだ。さらにウォーホルは、スクリーンの版ズレの効果が画像の立体視をもたらすことにも意識的だった。

 例えばウォーホルは、「アナグリフ」と呼ばれる左右の映像ソースが補色関係となるように合成された3D映像を参照し、補色関係にある2色のスクリーンをオーバーレイし、いっぽうをわずかにずらすことで、画像を3Dとして立体化する試みさえ行なっていた(1962年の《光学的な自動車事故》)。辰野がシルクスクリーン制作によって探究していたのは、複数のプレートが面として重層するシルクスクリーンの技術的特性と併行して現われる絵画空間の出現にほかならない。そのため、辰野のキャンバス作品において思考されるべきは、絵画面を覆う座標のズレ、重層が、彼女の絵画にどのような実践となって示されているかだろう。

 その観点において注目すべきは、先にも触れたドットを多用する《D74-4》などの74年のシルクスクリーンだ。これらの作品において、座標のズレ(すなわち版のズレであり基底面のズレ)によって斜行するドットの群れは、互いを反映するように、揺れ動く実体/影の二項対立的なイリュージョンをつくりだしている。おそらく、この座標のズレがもたらす形態の斜行と深く関与するのが、アメリカで活動した写真家マーク・フェルドスタインの写真集『Unseen New York』(1975)だ。

マーク・フェルドスタイン 『Unseen New York』(Dover Publications、1975)より

 辰野は偶然目にしたフェルドスタインの写真との遭遇を「私と同じ視点をもっている人がいる、と震えるくらい感動した」と語った(*1)。その写真は、辰野に、80年代初頭の装飾的モチーフをもちいた絵画作品を制作するきっかけを与えた。つまりそれは、従来の辰野の禁欲的な絵画空間を突破する道を与えたのである。フェルドスタインの写真集『Unseen New York』(1975)は、主にロウアー・マンハッタンの建物を正対称の位置から撮影し、建物を抽象絵画のような構成と正面性の演出によってとらえるものだった。フェルドスタインの写真はそのため、絵画空間と通じる様式性を備えていた。

 だが、さらに注目すべきは、その際フェルドスタインが、刻々と移ろう、建築物の表面に差し込む日陰の表情にこそ繊細な注意を払っていたことだ。彼は、時間的経過に従い壁に射影が生じることによる、平面的空間の変化や厚みの出現に関心を抱いていた。この写真集の序文でフェルドスタインは言う。「地理的な位置関係は変化しない。時間と光が変化のエージェントだ。すべての場所はコンスタントにその見かけを変える」(*2)。正面から撮影された建物のファサードには、太陽光による射影が生じ、フラットな面に還元できない、レリーフ状の空間的奥行きが立ち上がる。つまり、その写真では、斜めに延びる影によって、平面状の空間を斜め方向に並行移動する形態の射影=斜行が生じているのである。私たちがそこで目にするのは、空間に隠された座標があらわになる瞬間である。

マーク・フェルドスタイン 『Unseen New York』(Dover Publications、1975)より

 辰野がフェルドスタインの写真に見出したのは、自身が版画表現を通じて探究していた空間の特殊性を、写真という異なる領域で(ほとんど同じ問題意識によって)表現していた人物がいる、という驚きだっただろう。その写真は、抽象表現主義などのモダニズム絵画を参照することによって、座標のズレから、半立体的に立ち上がる空間性を発現させていた。ちなみにフェルドスタインはニューヨークで生まれ育ち、ニューヨーク市立大学ハンター校でのちに抽象表現主義の画家として知られることになるロバート・マザウェルとともに美術を学んだ。さらに彼は写真家になる以前、画家として活動していた。つまり彼の写真には、抽象表現主義(ニューヨーク・スクール)の絵画との併行性が認められるのである。

 辰野の70年代のグリッドにおける版のズレもまた、そこに形態群の斜行をもたらすことで形態が重層し、平面と立体の中層を往還する特殊な厚みをもたらす。このことは、四角い連続する棚のような形態を描いた一連の辰野のキャンバス(図:「F.T-1-2005」)が、アクソノメトリー(軸測投影図法)によって描かれた立体を思わせることと無関係ではないように思われる。

F.T-1-2005 2005 紙に油彩 撮影=大谷一郎 ©︎辰野剛、平出利恵子

 アクソノメトリーは、平面的な座標を軸に、形態の奥行き、高さ、幅を忠実に記述することができる作図法だ。アクソノメトリーでは、斜め方向に並行する座標点を基準として物体が作図されるために、物体を斜め上から見下ろしたような「眺め」のイリュージョンが与えられる。遠近法が、知覚的なイリュージョニスムを数理的に仮構するものであるのに対し、アクソノメトリーが強調するのは物体の実際であり、事物の物理的な寸法と観る者に与える立体感の統一性だった。

 アクソノメトリーは、19世紀後半から工学の場で教えられるようになったことによって広まり、その後、デ・スティルの建築プロジェクトやエル・リシツキーのプロウン、バウハウスの建築ドローイングでリバイバルした(*3)。遠近法との違いは、遠近法が特定の主体の視点を固定し、空間が消失点に向かって(ピラミッド型に)収斂するのに対し、アクソノメトリーが交わらない平行線の無限延長性を基準とすることだ。

 この作図法は言うまでもなくモダニズムのグリッド空間と親和的であり、かつ、物理的な実際を裏切ることがないという技法的側面によって、反伝統的なイリュージョニスムの近代性をもたらすものだった。加えて、観者という特定の人称を空間的拠点としないアクソノメトリーは、作図に非人称的な客観性を付与するものでもあった。

会場風景

 辰野の絵画における立体の発現と、座標の斜行によるアクソノメトリーとの類似は見かけ上のものではない。それは、アクソノメトリーと彼女の作品が、システムにおいて通底することを意味しているからだ。アクソノメトリーが、ほとんどの場合、方眼紙を用いて作図されるものである事実をそこに付け加えてもよい。そこに見られるのは、主体の視点という個別的・特権的拠点を持たない、非人称的な絵画空間である。主体を非在化する絵画空間の非人称的においてこそ、アグネス・マーティンと辰野の絵画は連携している。マーティンの絵画は、絵画における特定の「視点」の特権性を徹底的に脱構成するものだったからだ。

 したがって、アクソノメトリーの歴史的帰結とは以下のようなものだ。アクソノメトリーにおいて立体は、グリッドの幾何学的連続からなる均質な平面の延長性に依拠する(ゆえにこの空間的な質は、ポップ・アートとモダニズム双方の絵画とも共通する)。同時にそれは、斜行する形態の運動と同期する。つまりそこでは、グリッド/斜行/立体表現が連続し、平面と立体が交差する。辰野は版画においてはウォーホルの作品を、絵画制作においては抽象表現主義からの影響を公言していた。

 辰野が80年代に絵画面の手前で観者に向かって突出するような彫塑的ヴォリュームを描いたとき、それは抽象表現主義に代表されるモダニズム絵画の反イリュージョニスムの伝統からの離反であると見なされた。しかし、そのような評価は果たして正当なのだろうか。辰野が抽象表現主義の絵画に見たのは、イリュージョニスムの単純な抑圧ではなくむしろその特殊化であり、そこに、イリュージョニスムの抑止とその特殊化の二重の機制がはらまれているということである。辰野のキャンバスは、版による思考を通じて、その二重の機制にこそ応答しようとするものだった。

 これまで述べてきたように、「版」という問題系を差し挟むならば、辰野の絵画は見かけほど単純なものではないことが明らかになる。版の複数のプレートの座標的なズレがもたらすのは、複数の基層が折り重なる厚みのある空間、すなわち薄い厚みをもち平面と立体のあいだを往還する中層体である。ゆえにそれは、紙の束である「ノート」に似る。辰野の初期の仕事における罫線やグリッドが、理念的・概念的な座標ではなく、ノートという具体的な紙の束への参照から開始されたことの重要性もそこにある。

UNTITLED 95-11 1995 キャンバスに油彩 撮影=内田芳孝 ©︎辰野剛、平出利恵子

 言い換えれば版は、二次元と三次元、理念的空間と知覚的空間の差異といった複数の次元のズレを結晶化し、文字通り通約(プレス)する。辰野の絵画には、一枚と複数が共存し重合する特殊な絵画空間がある。例えば90年代から2000年代にかけて多く描かれた連続する四角い棚のある絵画では、ほとんどの場合、前後にふたつの棚が折り重なっている。また、環や柱などの形態が中央から「割れる」現象が頻出するのも、辰野の最盛期の絵画の特徴である(例えば1995年の《UNTITLED 95-11》など)。形態群に生じるこれらの衝突・重合・亀裂は、辰野の絵画が、版という技術から開始されたことと関係している。そこに認められるのは、複数の位相のズレを包含しつつ発現する空間的な裂け目だ。この裂け目を震源として、あらゆるかたちが発生する。

 70年代から80年代、そして2000年代以降の展開において、辰野は「版」という問題系を手放すことがなかった。その制作は、抽象表現主義からウォーホルに至る、モダニズムの絵画を拘束する問題群に対する絵画的応答でもあった。そこにはひとつの闘いがあった。それは、モダニズムの絵画が、一元化されたシステムからなる、視覚的イリュージョニスムを排したフラットな平面であるという神話との闘いである。1枚であると同時に、複数のプレートが併存し、重なり合う絵画。あるいは座標の斜行によって生まれる形態群。

 それは、次元の従来的な区分に従いつつ、それを破壊する。辰野に関しては、70年代の非イリュージョニズムか、あるいは80年代以後のイリュージョニズムの復活か、という二項対立的な図式からその様式的変遷が語られてきた。だが、辰野の絵画はもともと、そのような対立的な図式に抵抗するものとしてあったということだ。幾何学的に制御された面と面のズレ、その隙間から漏れ出す光のように逸脱し膨張する形態群を示すことにおいて、その絵画は、異なる、しかし連続する次元の葛藤・抗争を描き出してきたからだ。それらは、絵画平面という場にこそ生じる特殊な現象である。そこから生まれるあらゆる運動に突き動かされるように、倦むことなく、絵は描かれ続けた。

*1――『美術手帖』596号、1988年7月、139頁。
*2――マーク・フェルドスタイン『Unseen New York』(Dover Publications、1975)より
*3――1920年代におけるアクソノメトリーのリバイバルとその歴史的源流については以下の文献が詳しい。Yve-Alain Bois, “Metamorphosis of Axonometry,” Daidalos 1,(September 1981), pp.40-58.