地面を見よ
政治性の表明は、現代美術的な態度のひとつであると言っても過言ではない。作品に描かれた現実の政治問題が着火剤となり、ある展覧会が激しい対立の現場となる。けれども、現代美術に見られるこうした話法、すなわち再現=表象モデルを本書は採用しない。著者の沢山遼は作品それ自体もまた矛盾し合う諸力が闘争を繰り返す、政治的な場であると考えるからである。どういうことか。
例えば「限界経験と絵画の拘束」と題された章では、香月泰男の「シベリア・シリーズ」が「記録」である以前に、画布と画家とのあいだで交わされる力学的闘争の果てに残された「証言」の一種であるとする。その証拠に香月の絵画では対象=図の消失とともに前景化する、何もない地にシベリアの大地の実在性が託されている。戦争体験が絵画に投影されているのではなく、その現実的局面=政治的力学が絵画のなかで反復されているのだ。
再現=表象とは異なるモデルで作品を分析する手つきはクレメント・グリーンバーグのそれと前提を共有している。しかし、よく知られる通りグリーンバーグが脱政治的な純粋なる還元主義へと至ったと言われているが、沢山は本書の最終章において、グリーンバーグの批評「アヴァンギャルドとキッチュ」それ自体もまた政治的な力学を内在させたものであったことを明らかにしている。
このような作品と批評に力学的な場を一貫して見出す本書のもう一つの特徴は、その分析眼がしばしば「地面」に向けられることである。香月のほかにも、バーネット・ニューマン、辰野登恵子、そして新作のイサム・ノグチ論「火星から見られる彫刻」等においても、地面への知的な介入が重要視される。
時に図に対する地、あるいは文字通りの大地だったりするそれは空っぽであるとともに、何かで満ち満ちている。地面には無数の砂粒が埋まっているように。この空虚こそ充実という逆説は沢山が繰り返す論理である。優れた作品はその何かをとらえ、読み替えることで、新しい諸力の分布をつくり出す。それゆえに大地は決して制作を規定するものではなく、制作における操作可能な一条件なのだ。
近現代の絵画、彫刻、批評を扱う各論考は、以上のような作品の同一性を揺るがす力学的なダイナミズムのただなかへと読者を誘うことになるだろう。作品の向こう側ではなく、作品の内側に政治はある。沢山はそこへの巻き込まれることを芸術の思考=批評の始発点としている。
(『美術手帖』2020年12月号「BOOK」より)