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2017.6.7

大水が舞台に降り注ぐ。椹木野衣が見た『この丗のような夢・全』

1987年に結成され、大がかりな舞台装置を特徴とする劇団、水族館劇場。今年4月には、『この丗のような夢・全』が上演された。二度と同じ小屋はつくらないという彼らの屋外劇を、椹木野衣がレビューする。

文=椹木野衣

舞台には大きな池がつくられ、そこから龍が出現した
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椹木野衣 月評第106回 水族館劇場『この丗のような夢・全』 水びたしの夢(テアトル)

 会場となる新宿・花園神社の境内に足を運んだ日は土砂降りの雨だった。しかも公演はいきなり外で始まった。神社から入ってすぐのところに特設の野外舞台が組まれていたものの、すでに人がいっぱいで雨をしのぐ場所はない。普通なら見るほうも演じるほうもどこかでめげてしまうところだ。しかし、なぜかそれが心地よかったのだ。境内の桜がまだ満開だったからだろうか。それもある。でも、それだけではないはずだ。

 全席自由の桟敷に呼び込まれて、初めて理由がわかった気がした。舞台といっても仮設だから外の雨音は筒抜けだし、風が強く吹けば外壁代わりのテントが内側にたわんで微妙に変形する。しかしかれらの出し物は、そんな荒ぶる外と地続きとなって、いっそう魅力を増すような代物だったのだ。

舞台外で繰り広げられている前芝居

 舞台の設定は敗戦直後の闇市が立つ新宿の飲み屋街だが、背後が完全には閉じられていないから、本物の戦後の名残といえる新宿の飲み屋街の気配が居ながらにして感じ取れる。21世紀にまでかろうじて生き残った現実と虚構が、仮設された舞台を通じて折り重なっている。そこに雨が「水族館」の水槽の内側にいるように降り注ぐ。内と外、現実と虚構が混じり合うパフォーマンスや屋外劇はずいぶん見てきたが、自分たちで立てる最大で高さ13メートルにも及ぶ仮設劇場を通じて、現実と虚構がまるまる入り組むのはスケールの次元がぜんぜん違っている。聞けば、会場となる寺社境内に応じ、二度と同じかたちの小屋はつくらないのだという。その躍動感は、雨風の日でよかった、と心から思えるほどだった。

焼け跡につくられた盛り場

 思うにいつのまにか、ある程度の規模の演劇といえば、設備の整ったホールで「鑑賞」するものと当たり前のように受け取っていた。空調は利いているし、マニュアルもしっかりあるだろう。けれども、そうした「建築」の内部で体験する「演劇」は、内容がどんなに冒険的であっても、やはり根本的には管理されている。そして、そのような「管理」は、かえって「想定外」に弱い。私たちはそれを東の大震災を通じて思い知った。むろん、水族館劇場が無管理なわけではない。それでいえば安全面も含め、かえって安心さえ感じた。なぜか。

大量の水を使用したラストシーン

 役者から裏方に及ぶまで、鳶職人、踊り子、放浪芸人、果ては元宝塚のバーのママから「零細」出版社の社長まで、社会のあらゆる階層から公演のたびに〈座〉に集い、舞台に上がることで成り立つかれらの芝居には、それぞれが実際の現場をわたって身につけてきた技術と人心掌握の術がふんだんに取り入れられているからだろう。混沌とした現在の世相の中では、かえって頼もしく、また先進的にさえ感じられる。それこそ「想定外」の連続をくぐり抜けてきた賜物だ。だからこそクライマックスで、25トンもの“災害級”の大水が舞台に降り注ぐことも可能になる。

 終演後、座はそのまま打ち上げ会場となり、客も出演者も入り混じった。だが、こうした屋外劇は、いろいろな規制で年々上演できる場が狭められているという。しかしそのことで、私たちはかえってさらなる目の前の大きな危機と、管理者、規制者への人間的な不信を招来してしまっていないか。

  (『美術手帖』2017年6月号「REVIEWS 01」より)