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2018.6.17

【シリーズ:BOOK】
営みとしての民藝の可能性を問う『二十一世紀民藝』

『美術手帖』の「BOOK」コーナーでは、新着のアート&カルチャー本のなかから毎月、注目の図録やエッセイ、写真集など、様々な書籍を紹介。2018年6月号の「BOOK」で取り上げる1冊目は、塗師の赤木明登が民藝について書いた『二十一世紀民藝』。

文=鞍田崇(哲学者)

赤木明登著『二十一世紀民藝』の表紙

「なぜ」から始まる民藝へ

 輪島を拠点に塗師として活躍される赤木明登の『二十一世紀民藝』を読みながら、ふと、メディアクリエイターの佐藤雅彦の言葉を思い出した。「いかに人生をよく生きるか、生活しやすいようにするか。その方策を決めるのがデザインという行為ですよね。(中略)だからデザインには前提として必ず『生』がある。ところがアートはそうではありません。アートは『いかに』ではなく『なぜ』で始まります。なぜ生きるか。そうすると『生』だけでなく『死』をも範疇として扱わなくてはならない」(「デザインという領域から逸脱をはじめた、佐藤雅彦のいま」『美術手帖』2010年10月号)。

 「いかに」ではなく「なぜ」で始まる営みは、アートだけではない。生だけでなく死をも見渡し、デザインという領域から逸脱しつつ、あくまでカタチあるもの、しかも「美しいもの」を生み出す営みは、ほかにもある。その稀有な好例が、民藝だ。そうして、まさにそうした営みとしての民藝の可能性を問うたのが、赤木明登の『二十一世紀民藝』ではないかと思う。

 本書のコンテンツを見ると、緒言以下、各章のタイトルには「直観」「用の美」「下手の美」「工藝の大河」「他力」とある。いかにも古めかしい民藝の中心概念がズラズラと並んでいる。随所に柳宗悦の引用もある。だが、過去の民藝の議論をなぞることに本書の関心があるわけではない。赤木は言う。

 「いま時代が求めているのは、民藝がいちど見失った、民藝の本質である」。

 そんな「民藝の本質」について、21世紀を生きるつくり手ならではの視点と体験から縦横に解き明かすのが、本書の魅力である。その内実は各自読み解いていただくとして、語られた「本質」にあえて名を付すなら、「『なぜ』から始まる民藝」とでも言えるだろうか。なぜ生きるか。それに応答する民藝である。

 本質を見失ったのはじつは民藝だけではない。「いかに」の世界で汲々として、時代が、社会が、そこに生きる僕らもまた見失っていた。小手先の「いかに」の競い合いに夢中になるあまり、現代社会はかえって袋小路に陥っているかのような気すらする。その現実を真摯に受けとめつつ、そこからの出口を求めるとき、本書は格好の道標となるだろう。これまで民藝に興味のなかったという方でも、きっと多くの気付きを得るはずである。

『美術手帖』2018年6月号「BOOK」より)