対話としての表現
静岡県島田市、大井川の中流域に位置する抜里(ぬくり)集落。大井川鐵道の無人駅を降り、茶畑に囲まれた細い坂道を抜けていくと、古い木造の作業小屋が見えてくる。その重い引き戸を開けると、使い込まれた農機具の冷ややかな気配とともに、圧倒的な数の色彩が視界に飛び込んできた。2026年3月15日まで抜里地区を舞台に開催された「大井川芸術創生譚──UNMANNED無人駅の芸術祭/大井川の先へ」において、「くにおさんのガレージ」と名付けられたその場所に、昭和40年代から令和に至る約60年間にわたって描かれた44枚の絵画が掲げられていた。

「かつてこの場所で、両親が『人間耕運機』とあだ名されるほど働いて、夜通し茶を揉んでいたんだよね」。
そう話しかけてきてくれたのが、これら作品群の作者・米澤國雄(よねざわ・くにお)さんだ。米澤さんは、1948年に4人きょうだいの長男として抜里で生まれ、この地で77年間暮らしている。美術の専門教育を受けた経験はない。しかし、彼は18歳で町役場に入職してから定年を迎え、さらに地域活動の重責を担い続ける現在に至るまで、誰のためでもない独学の表現を、深夜の孤独のなかで継続してきた。展示された作品群《家族を見つめて》の前に立つと、そこにはひとりの男が歩んできた極めて私的な、しかし剥き出しの「生活歴」が定着していることがわかる。産まれたばかりの我が子が丈夫に育つようにと、桃の葉を入れたたらいで行水させる風景。自身の結婚披露宴の熱気。91歳で逝去するまで介護を続けた母との触れ合いや、義理の両親を連れて行った「はとバス」での東京見物の一幕。そして、最新作には孫たちの姿。写真はもとより、自身の指が覚えている感触や、当時の記憶の肌触りを頼りに、1枚に約2週間をかけて油絵具を塗り重ねていく。そこにあるのは、美の探求ではなく、目の前にある生の事実を慈しみ、確認し、忘れないための、切実な対話としての表現なのだ。

情熱をかけた地域活動
そんな米澤さんの人生は、つねに「公」と「地域」に捧げられてきた。米澤さんは18歳から60歳まで42年間にわたり旧川根町役場、そして合併後の島田市役所に勤務し、地域振興や災害時の初動体制構築に心血を注いだ元地方公務員だ。しかし、彼の真骨頂は、その職務の裏側で展開された圧倒的な熱量を持つ地域活動にある。18歳から始めた青年団活動は、人生の大きな転機となった。青年団のなかでレクリエーションを提供する「ションション青年団」にも加わり、1970年の大阪万博開催時は各国のパビリオンを抜里の名所になぞらえた創作劇を上演するなど、地域に娯楽を提供してきた。お宮の裏側に手づくりの土俵を設け、青年団主催で相撲大会を開催していた頃、数日間の稽古を経てあざだらけになった体を洗って本番に挑んだ記憶が、彼の身体にはいまも刻まれている。

そうした情熱がもっとも公的なかたちで結実したのが、1980年に開館した静岡県青少年会館(静岡市葵区田町)の設立運動だ。米澤さんは、若者たちの拠点を自らの手でつくるべく「ひとり1000円運動」を提唱。自ら「青年会館建設の歌」を作詞し、作曲は音大の後輩に依頼して、歌を歌いながら募金を募るという、現代では想像もつかないほどの熱量で建設資金を集めた。その館に掲げられたシンボルマークもまた、米澤さんのデザインによるものとなっている。2025年3月30日、その青少年会館は46年の歴史に幕を下ろした。建物は失われても、彼が深夜の孤独のなかで描き続けてきた記録画のなかには、当時の熱気が、誰にも奪えない記憶として保持されている。
「満足はしていない」
この「私的な記録」を、地域の新たな価値として見出し、芸術祭の文脈に接続したのが、総合ディレクターを務める兒玉絵美さんだ。兒玉さんは抜里の出身であり、父親・徳治さんと米澤さんは、かつて同じ消防団に所属し、地域の火難を防ぐためにともに奉職した間柄だった。こうした世代を超えた信頼関係があったからこそ、米澤さんは自らが暮らす敷地というもっともプライベートな空間を差し出し、そこに自身の生活歴をさらけ出すことができたのだろう。外部のアーティストが地域に介入する際、こうした血の通った人間関係こそが、表現を風景のなかに定着させるための決定的な礎となる。
米澤さんのように、外部の表現者との接触によって自身の創作が再定義される事例は、鹿児島県甑島(こしきしま)列島の「KOSHIKI ART PROJECT」で見られた平嶺時彦(ひらみね・ときひこ)さんの姿とも重なりあう。時彦さんもまた、80歳を過ぎてから島を訪れる若手表現者に刺激を受け、ブルーシートやボンドといった身近な素材を用いて独学の創作を爆発させた「超老芸術」の体現者だ。年間100作品を生み出すハイスピードな創作へと転換した時彦さんと同様に、米澤さんも、今回の芸術祭に参加したアートコレクティブの天地耕作(村上誠さん、村上渡さん)が展開する「産土(うぶすな)」という土地の地層を再構成する根源的な表現に触れ、深い感銘を受けている。
とくに、村上誠さんの存在は大きい。村上さんは1993年に世田谷美術館で開催された「パラレル・ヴィジョン 20世紀美術とアウトサイダー・アート」展を観たこと機に、アウトサイダー・アート、すなわち美術教育を受けない者たちの純粋な表現への関心を深めてきた表現者だ。プロの側がアウトサイドの表現に敬意を払い、アウトサイドの側がプロの熱量に触発される。神社跡地を掘り、石を積んで生と死の境界を描き出す村上兄弟の傍らで、米澤さんは「満足はしていない。まだ空白がある、道半ばだよ」と、77歳にしてさらなる創作への意欲を口にする。今後は「もう少し社会に訴えるような絵を描いてみたい」という新たな野心が芽生えているという。

この「満足はしていない」という米澤さんの言葉は、枯淡の境地ではなく、いまだ燃え盛る創作の野心の表れだ。77歳にしてなお、ブルーシートを広げ、新しい絵画に挑もうとするその姿は、僕たちが安易にイメージする「老い」の概念を根底から覆す。彼のガレージに並ぶ44枚の記録は、完結した過去の遺産ではない。いまこの瞬間も、新しい命の気配や集落の移ろいを、彼の手は敏感に感じ取り、次のキャンバスへと向かおうとしている。文化の価値とは、いったい誰が決定するだろうか。高名なキュレーターなのか、市場の価格なのか。抜里の地で展開されたこの「創生譚」は、この問いに対して、ひとりの生活者が60年間積み上げてきた「時間の集積」という、ひとつの答えを提示してくれた。
「(絵を描くことは)ライフワークだね、僕の」。
米澤さんは語りのなかでそう口にした。その筆先には、迷いはない。ただ、かつて祖父が手をなぞって教えてくれた馬の絵の描き方の感触が、いまも確かに息づいているだけだ。描いてきた絵画には、米澤さんが公務の裏側で「費やした途方もない時間」が堆積している。それは、思想家・田澤義鋪(たざわ・よしはる)が説いた「故郷に錦を飾るよりも、故郷を錦で飾れ」という言葉を、静かに実践し続けてきた証でもある。田澤の思想は、地域の自立とは外部評価を求めることではなく、住民自身が足元の生活や文化を耕すことにあると説く。米澤さんが公務の傍らで地域の基盤を支え、同時に深夜の絵画制作で家族の歴史を定着させてきたのは、この思想を「公」と「私」の両輪で実体化させる試みだったと言える。
芸術祭の最終日、会場には来場者の声で更新され続けた「集落さんぽマップ」が配布され、夕闇のなかで天地耕作のパフォーマンスがフィナーレを迎えた。米澤さんがかつて環境整備のために植えた桜が、いまや「桜トンネル」として人々を魅了するように、彼が深夜の孤独のなかで織り上げてきた色彩は、抜里という土地の新たな文化的資本として次世代へと手渡されようとしている。文化とは、完成された結果を愛でることではない。風景の奥にある人の気配に目を凝らし、絶え間なく続いていく「創生」のプロセスそのものを生きることなのだ。

























