ミヤギフトシ連載16:サマセット・モーム『英国諜報員アシェンデン』 ある男の虚栄心と涙
アーティストのミヤギフトシによるブックレビュー連載の第16回。今回取り上げるのは、イギリスの作家、サマセット・モームの小説『英国諜報員アシェンデン』(新潮社)。スパイが主人公の人間ドラマから連想された、現実とも非現実ともつかない恋愛の物語を、モームゆかりのジュネーヴの風景とともにたどる。
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8月はひと月ロンドンに滞在していた。作家のサマセット・モームについてのリサーチを行い、彼にゆかりのある土地を訪ねるためだった。モームが生きた時代、イギリスでは男性間の同性愛行為は違法だった。そのような時代にゲイとして生きた彼はまた、取材や執筆と称しての国外滞在がどちらかといえば容易な劇作家・小説家という立場を利用し、スパイとしても活動していた。ある意味、二重の秘密を持っていた彼の人生に、私は長く興味を惹かれていた。滞在半ば、彼が参謀活動を行っていたというジュネーヴを訪ねた。彼が拠点として滞在していたという小さなオテル・ダングルテールを訪ね、それからレマン湖の辺りを散歩した。8月の終わりでも肌寒かったロンドンとは打って変わり、30度を超える真夏日だった。
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『英国諜報員アシェンデン』は、彼がジュネーヴにて参謀活動を行っていた経験などをもとに書いた小説だ。この小説には、スパイもの、と聞いて想像するような派手な描写はほとんどない。アシェンデンをはじめとしたイギリスのスパイや他国のスパイらしき人物、要人は戦時中にもかかわらずどこか退屈しているようにすら見える。癖のある人物らのなかでも強く印象に残る人物に、英国大使ウィザースプーン卿がいる。身のこなしは優雅でスタイルも良く冷静沈着、非の打ち所がない英国紳士。ある日アシェンデンは卿から夕食の誘いを受ける。着いてみれば卿の妻は外出しており、ふたりきりのディナーだ。
「わたしはいつも食事のまえにはシェリーを飲むことにしているのだが、きみがカクテルなどという野蛮な飲み物に淫していることも考えて、ドライ・マティーニとかいう代物も作れるようにしておいた」 アシェンデンは気後れを感じてはいたものの、こんな場面でみっともない返答をするつもりはなかった。 「わたしは、新しいものでいいものは積極的に取り入れるほうでして。マティーニがあるのにシェリーを飲むのは、オリエント急行があるのに辻馬車を使うようなものです」 サマセット・モーム著、金原瑞人訳『英国参謀員アシェンデン』(新潮社、2017)
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「道理のわかる人はみんな知っていることですが、魂を悩ます感情のなかで、虚栄心ほど破滅的で、普遍的で、根深いものはありません。そして虚栄心の力を否定するものがあるとすれば、それは虚栄心しかない。愛以上に破壊的です。年を重ねれば、ありがたいことに、愛の恐怖も愛の枷も指を鳴らせば消えてしまいます。しかし虚栄心の鎖から自由になることはできません。愛の痛みは時で癒すことができますが、傷ついて痛む虚栄心を癒すことができるのは死のみです。愛は単純ですから、みるがままです。それにひきかえ、虚栄心は百もの偽装で人を欺きます。そのうえ、多かれ少なかれ、あらゆる美徳にこれがふくまれているのです。勇気の推進力であり、野心の活力であり、愛するものに誠実さを、ストイックな者に忍耐を与え、名声を求める芸術家の炎に油を注ぎ、正直者の高潔さを支え、それに代償を与えます。謙虚な聖者の心のなかでも、シニカルに笑っているのが虚栄心です。これから逃れられる者はいません。防ごうと苦労すれば、その苦労に付けこんで人を躓かせる。虚栄心の攻撃には打つ手がない。どこを撃ってくるかがわからないのですから。誠実さもその罠から逃れる道具にはならない、ユーモアもその嘲りを防ぐ盾にはなりません」 (中略) 「結局、人が忌まわしい運命を生き抜くことができるのも、虚栄心があってのことだと思います」 サマセット・モーム著、金原瑞人訳『英国参謀員アシェンデン』(新潮社、2017)
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