女性表象の解体に挑む
本書は、ロザリンド・E.クラウスが唯一女性作家のみを扱った評論集である。対象となるのは、クロード・カーアン、ルイーズ・ブルジョワ、シンディ・シャーマンら9名。
しかし、なぜ女性なのか? ひとつには、従来のフェミニズム研究に対するクラウスの批判的な距離感がある。クラウスは、フェミニズムの手になるシュルレアリスム研究やシンディ・シャーマンらへの批評において、女性が搾取されるフェティッシュな対象として見なされてきた点を厳しく批判する。このような見方は、抑圧する男性/抑圧される女性という性差の二分法を強固にし、かつ固定的な意味(シニフィエ)へと女性を実体化するからだ。
クラウスの姿勢はその逆だ。クラウスは、これらの(女性)作家こそ、多方向に炸裂する意味作用(シニフィアン)と脱領域化の担い手であったとする。例えば本書で取り上げられる複数の作家の主要なメディウムは写真であった。写真は、絵画や彫刻といった美術史上の中心的メディウムに対して周縁的、付随的、二次的であり、かつコピーやシミュラクルに開かれている。本書では写真が、個別の地位を撹乱し複数の表象を乱反射する逸脱性を持つメディウムとして重視される。つまりこの書物は、被虐的な意味の実体としての女性表象を解体し、そこにシニフィアンの複数性こそを見出そうとするものなのであ る。
では本書が言う「独身者」とは誰か? その理論的な参照項となるのは、ミシェル・カルージュの『独身者の機械』や、ドゥルーズとガタリが『アンチ・オイディプス』の「欲望機械」の章で展開した〈Connecticut→connect (接続せよ)+I(私は)+cut(切断する)〉である。独身者の機械としての彼女たちの作品は、特定の意味や象徴を蓄積することなく、諸領域を次々に連結(connect)し、かつ事前の意味を切断(cut)しながらオルタナティヴな意味作用を生成し続ける。独身者の機械とは、多方向的なシニフィアン連鎖と切断、つまりは差異だけを産出する装置なのだ。差異のon/offに貫かれた独身者の身体は究極的に無産的だ。
作品に内在する無数の差異を析出し、そこに確かな輪郭を与えるクラウスの筆致は、本書でも際立って冴え渡っている。
(『美術手帖』2018年12月号「BOOK」より)