写真という行為への根源的な問い
写真批評家として15年余の活動を続けてきた著者による初の単著である。副題には「写真をめぐるエッセイ」とあるが、ここでのエッセイという言葉は「随筆」ではなく、語の本来の意味である 「試論」と訳されるべき類いのものだろう。しかもその「試論」の矛先は、作家論・作品論の圏域を突き抜けて「写真を見て語ること」の原理的なレベルにまで向けられている。「たったひとつの写真を、自分は本当に見たと言えるのかを問い、立ち止まること」。ひとつの写真との出合いを 「見なかったことにはできないもの」として一身に引き受ける著者は、最新の写真理論を接ぎ木するようなスノッブな批評的態度からは決然と距離を置き、徹底して「見ること/語ること」の困難に対峙している。換言すればそれは、イメージに漸近的に迫るための道筋そのものを探ることから始めるひとつの倫理的態度である。
本書の骨格を成すのは、鷹野隆大、鈴木理策、志賀理江子、土門拳、新井卓ら12名の写真家についてのテキストだ。12人の写真家たちは、いずれも、イメージを収奪する写真装置の暴力性を自覚し、「あるイメージを表象することの困難」にふれえた表現者たちである。例えば手法を何度も試し替えつつ他者との距離感を探ってきた鷹野。写真家としての特権性や「仕上げ」をあえて手離して世界のわからなさに肉薄する鈴木。ヒロシマという取材対象を得て共有不可能な痛苦に直面する土門。「見ること/語ること」を方法から問う著者だからこそ、彼らのラディカルな仕事に対する理解は深い。
また、著者の活動を決定的に方向づけたという意味では、一冊の写真集の存在を忘れるわけにはいかない。ジョナサン・トーゴヴニクによる『ルワンダジェノサイドから生まれて』。ルワンダの大虐殺で性的暴行を受けた女性たちを取材・撮影した同書をきっかけに、著者は日本語版の刊行と展覧会企画に向けて奔走することとなった。本書の後半に収められた「ルワンダ・ノート」は、プロジェクト進行当時に著者がブログに綴ったテクスト群の一部抜粋だ。断片的で未整理なノートではあるが、書物からの引用を多く含むこれらの記録は紛れもなく、「語ることを困難にさせる写真」に粘り強くアプローチした批評行為の生々しいドキュメントとなりえている。自他の思考が星辰のようにまたたくテクスト空間が立ち上がっている。
深い沈黙を強いる写真というのは確かに存在する。本書はそうした沈黙の領域の周辺をめぐりながら、それでもなお語りの入口を模索しつづけた不断の試みの結晶である。