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INTERVIEW - 2018.11.16

女性性、他者としての美術史。
ケイト・グルービー インタビュー

イギリス・ヨークシャーと南フランスを拠点に、パートナーと世界を旅しながら活動しているケイト・グルービー。 人との出会いや関係性をテーマに、一見、ピカソやマティスなどの作風を彷彿とさせながらも、 パフォーマンスと深く結びついた絵画を制作してきた。大和日英基金アートプライズ受賞を機に来日し、個展を開催した作家に、自身のライフスタイルとそれに基づく作品制作について話を聞いた。

文=原田裕規

ミヅマアートギャラリーにて 撮影=田尾沙織

ミヅマアートギャラリーにて 撮影=田尾沙織

歴史と寄り添い、個人的な体験に基づいて他者とコミュニケートする絵画とパフォーマンス

 ロサンゼルス・カウンティ美術館(LACMA)にピカソの《男と女》という作品があります。男性が女性の性器にナイフを突きつけている絵で、あるとき私がそれを眺めていると、男性の警備員が冗談っぽく笑いながら『ピカソはブタ野郎だよ』と話しかけてきました。そのとき、なんだか考えさせられてしまって。というのも、私もピカソと同じように(女性の)恋人を描いたら『ブタ野郎』になるのかなと思ったんです」。

「女性の目線」で女性を描く

 ミヅマアートギャラリーで、今年、大和日英基金アートプライズを受賞したケイト・グルービーのアジア初個展が開かれた。冒頭で紹介した彼女の言葉は、本展「ピュア・プレジャー(純粋な喜び)」のタイトルにもなった新シリーズを制作するきっかけになったエピソードであり、のみならず、彼女の作品を理解するうえで重要な2つのモチーフが登場している。そのモチーフとは、ひとつはピカソ、もうひとつは女性性である。

個展「ピュア・プレジャー」の展示風景 撮影=宮島径

 一見してわかるように、グルービーの作品にはピカソやマティスといった「モダン・マスターズ」からの影響がはっきりと見て取れる。しかしながらその手つきは、彼らを過去のものとして見下ろしシミュレートするわけではなく、彼らと同じ目線に立って、ピカソやマティスらと同一空間で自らのアイデンティティを示そうとしているように見える。それはどういうことか。彼女自身が語る「目線」の話から始めることにしよう。「ピカソやマティス、セザンヌといったアーティストたちは私のヒーローです。彼らに触発されて絵を始めたと言っても過言ではありません。でももちろん彼らとの違いもあって、何よりも、彼らは男性の目線で女性を描いていました。それでは反対に、女性の目線で女性を描いたらどうなるのかなと思ったんです」。

 グルービーがこのように語る背景には、彼女が「ピュア・プレジャー」で描く女性のモデルが、彼女の恋人ジーナであることも関係している。もちろん、「女性の目線」で作品をつくるということ自体は美術史においてはなんら新規的な試みではない。むしろ、括弧つきの「女性アーティスト」による表現としては紋切り型であると言ってもよいだろう。それでは、グルービーは自身の制作の特徴をどのような点に見出しているのだろうか。

 「ピカソの絵画に見られるような『男性の目線』から見た女性は、受動的な女性として描かれています。でも、今回の新作シリーズで描いた女性はそうではありません。例えば、シリーズのなかに月を指さす女性を描いた作品《ザ・ブライト・サイド・オブ・ザ・ムーン》があるのですが、そこに描かれている女性は、鑑賞者に自分自身を見てもらうのではなく、何を見るべきかの指示を出しているのです。

ザ・ブライト・サイド・オブ・ザ・ムーン 2017 紙に水彩 29.7×21cm

 ほかに《ギブ・ミー・ワット・アイ・ワント》という映像作品があります。作品のなかでパフォーマーが鑑賞者に『私が望むものを私に与えてください。そうしたら、あなたが望むものをあなたに与えてあげます』と訴えかけるのですが、彼女は映像に鑑賞者の欲望を投影させようとはせず、映像のなかで自分自身の欲望を表現しようとしています。彼女はそのムーヴ(動き)で『男性の目線』をブロックし、彼女自身の欲するものを表現しようとしているのです。そうした点がピカソとは異なります」。

絵のなかに入り込むこと

 このようにグルービーの制作では、「男性の目線」をブロックする手段として「自らダンスする」ことが可能な映像という方法が大きなウェイトを占めている。もし彼女の作品が、ただたんに「女性の目線で」ということのみを強調したものであるのなら、おそらくそのメッセージは、グルービーの批判する「男性的」なアート・ワールドにおける「女性部門」から発せられたものとして、むしろ現状を補強する方向へと向けられてしまうだろう。しかしそこで発せられるメッセージのもっとも重要な部分は、「(パフォーマーが)彼女自身の欲するものを表現して」おり、私たち(すべての性別を含む)鑑賞者が「何を見るべきかの指示を出」されているという点にあるのではないだろうか。

 すなわち、こういうことである。私たちがグルービーの作品に目を向けるとき、例えば月を指さす女性が描かれた作品ではその視線は「女性」から「月」へと流れるようにそらされていく。そうやって絵のなかに描かれた月を眺めていると、私たちと同じ空間には、先ほど指さしていた女性が佇んでいることに気がつく。それはまるで「絵のなかに入り込む」ような体験であり、絵画においてもそうした関心を表していたグルービーが、より効果的にそのような体感を演出するために選んだ方法がパフォーマンスと映像だった。

 「私の制作は小さな水彩を描くことから始まって、油彩に移ります。その次に等身大の大きな紙を地面に置いて、身体全体を使って大きく描きます。小作は手を使って描きますが、大作は全身を使ったフィジカルなアプローチになるんです。そして映像には、それらのプロセスをさらに一歩進めた、全身が作品のなかに入り込んでしまうかのような役割を負わせています。フィジカルな制作プロセスに重きを置くことで、鑑賞者が絵のなかに入り込んでしまうような世界をつくり出そうとしているんです」。

絵のなかから飛び出すこと

 グルービーの話を聞いていると、「絵のなかに入り込んでしまうような」彼女の映像は、作家自身の日常から派生するように生まれたことにこそ大きな意味があるのではないかと思われた。というのも、彼女が語るピカソやマティスらとの距離感は、まるで彼女自身が「絵(美術史)のなか」に入り込んでそこから話しかけているかのように、彼らにとても近いところにその身を置いているかのように感じられたのだ。それもそのはずだろう。グルービーは本当に、というよりも物理的に、ピカソやマティスらと近いところにいるらしいのだ。

 「以前、私はヨークシャーとパリを拠点にしていたのですが、パートナーのジーナと一緒に暮らしていた家がパリ同時多発テロ事件の現場近くにあったので、すっかり気分が落ち込んでしまいました。それに私のスタジオも家から離れたところにあって、排気ガスや騒音も問題だったので、これまでとは違うライフスタイルを求めて南フランスに移ることにしました。すると、そこにはヨークシャーやパリとはまったく異なる明るい光が広がっていました。その光は美しく白いもので、マティスやピカソ、セザンヌらも住んでいたところだったんです」。

 グルービーがマティスやピカソらと地続きの空間にアイデンティティを見出したとき、「絵のなかに入り込む」というよりも「現実が絵のなかに溶けていく」ような、あるいは「絵が現実に飛び出してくる」ような感覚を覚えていたのではないだろうか。

ギブ・ミー・ワット・アイ・ワント 2018 ヴィデオパフォーマンス 2分10秒

​ また、南フランスでの暮らしに先駆けて、彼女がパフォーマンスの実践を始めたきっかけは「スタジオを失ったこと」にあった。「1年間スタジオを持っていなかった時期がありました。そのあいだに絵が描けなかったのもあり、パフォーマンスを始めたところがあります。というのも、私が初めてジーナと出会った場所はイタリア、ヴィラレナ基金のアーティスト・イン・レジデンスだったのですが、それからロンドンに戻って、当時7年間付き合っていた男性と別れ、ジーナと暮らすために荷物をまとめてパリに向かいました。そんな成り行きだったので、最初はスタジオも持てずに暮らしていて、それでも何かを制作したいと思ったときに、自宅のリビングでできたことがパフォーマンスだったんです」。

 このようにして日常のなかから生まれたパフォーマンスと、南フランスへの移住という日常の変化が生み出したのが、画面から出てきたような女性が「彼女自身の欲するものを表現」してダンスする映像作品だった。

近くて遠くにいる人

 グルービーに対してはこれまで、そのキャリアに比して決して少なくはない数の言及が行われてきた。しかしそれらのほとんどは、彼女の「独創性」や「活力」を手放しで褒めるばかりのものであり、彼女自身の「美術史的な」関心に対してまともな批評が行われてきたとは言いがたい。そして今回、実際に作家に会ってインタビューしたかぎりでは、彼女は美術史「を」批判的に検証することよりも、どのようにして美術史「と」付き合っていくかということに関心を持っていることがわかった。

 「私は歴史と寄り添うことが好きです。なぜなら歴史は変えられないので、それを否定するのではなく、かといって無視するのでもなく、新しい方法で表現を行うことが重要なんです。ピカソはものすごく大きなことを成し遂げました。その歴史が重要なことに変わりはないのですが、私たちも何か新しい方法を打ち出すことが大事だと思っています」。

 このように語る彼女の制作は、美術史、具体的にはピカソやマティスら「と」寄り添う方法を打ち出すことにその主要な労力が払われている。

プレイシス・アンノウン 2018 ヴィデオパフォーマンス 1分39秒

 ところで、これまでも日々の暮らしや旅先での経験を作品に転換してきたグルービーだが、日本での経験はどのような影響を与えているのかを尋ねてみた。すると、次の作品のためのリサーチとして、能、歌舞伎、相撲などを見に行っているといい、興奮した様子で能を鑑賞したときの体験を話してくれた。

 「最初の1時間半は寝ていたんですけど(笑)、途中で目が覚めたとき、半分夢うつつの状態で、恋煩いをした若い娼婦のお面を被った演者の姿が目に入りました。そして突然、お面が生命を宿しているように感じられたんです。生きた人間よりもリアルな魂があるようなエネルギーを感じて、太鼓の音とともにトランス状態みたいになって、それから30分以上、演者が去るまで心を奪われ、深く感動しました。感情がすごく伝わってきて圧倒されたんです。そのお面はとても生き生きしていて美しく、予想だにしていなかったことですが、自分のダンスにもたくさんアイデアをもらうことになりました」。

 様々ある能の要素のなかでも、能面と演者の身体に興味を惹かれたというエピソードは、グルービーのこれまでの制作を見ると、意外というよりはしっくりくる。グルービーが能面越しにコミュニケートした「若い娼婦」は、彼女にとって「ピカソ」や「マティス」らと同じような意味で「近くて遠くにいる人」だったのではないだろうか。それに、おそらく彼女にとって重要なのは「美術史」ではない。対象との対等な「距離感」や「関係性」なのではないか。だからこそ、グルービーがこれまで制作を通して繰り返し試みてきたことは、彼女にとっての「他者たち」と同じ目線でコミュニケーションを取る作業だったのではないかと思う。それゆえに、彼女のこれからの展開は「美術史」ではないところも含めて、予想もつかないところに転がっていく可能性を秘めている。

(『美術手帖』2018年12月号「ARTIST PICK UP」より)