越境する個人の歩みと「歴史」の交錯
その方位磁針を軸として、部屋の右奥では若き日の荒木がバナナを銃に見立てて自殺を図る《スーサイド・ピース》(2007)が上映されている。皮は黄色で中身が白いバナナは、白人の価値観を内面化したアジア系アメリカ人を揶揄する際によく言及される。荒木がここで殺そうとしたのは、アメリカ人になろうとしてなりきれなかった自分なのだろうか。実は本展が扱う4人の日系作家のうち、アメリカ国籍を持つのは野田だけである。戦前のアメリカでは一世は帰化申請できなかったからだ。戦後、国吉は市民権が認められる前に逝去し、石垣は共産主義活動が問題視されて国外退去になった。アメリカ生まれの野田にしても3歳から18歳まで日本で教育を受けた「帰米二世」であるし、逆に3歳から7歳まで、そして14歳から22歳までをアメリカで過ごした荒木は、2006年に永住権申請が却下されている。生きた時代が違っても、それぞれに「アメリカ人」、そして「日本人」としてのアイデンティティに相当な屈曲があることは想像に難くない。

左の壁面ではそうした二面性を持った国吉が1930年代に写したアメリカの光景が、手前のケースにはGHQ占領下の日本でアメリカ向け輸出品として製産された犬の陶器が《野良犬たち》(制作:1947〜52/発表:2017〜)として展示されている。「Made in Occupied Japan」と刻印された犬たちの主人となったアメリカ人は、やがてそれらを手放し、荒木はそれをネットオークションで入手して日本に呼び戻す活動を続けている(*4)。保護犬のようにレスキューされた犬たちはそれぞれに可愛らしくユーモラスな表情をしているが、集合的な存在としては、彼らもまた敗戦後の日本とアメリカの関係性と、その不均衡さに起因するメランコリーを抱えた存在のように見える。

だが、アジア太平洋戦争の敗戦とそれに続く占領は、明治以降、アジア唯一の「帝国」を目指した日本がたどり着いた必然の帰結でもあった。《アザー・アンセム》(2016)はそうした近代化の過程で消えていった「君が代」の初代バージョンを編曲したものだ。明治2年にイギリス人が作曲した原譜をさらにカントリー調に編曲してあり(*5)、どうやっても「君が代」の歌詞を乗せて歌えるようには聞こえないのだが、その脱力感が「国歌」に仮託されるナショナリズムをうまく骨抜きにしている。他方、その傍らに展示された野田の《風景》(1937)は、繊細なタッチで描き込まれた素朴な雪景色と、輪郭線だけで描かれたへなちょこな(失礼!)人物群とのアンバランスさ、さらにアメリカ共産党の諜報活動に携わっていたとされる彼の経歴の不可思議さが、観る者に消化不良を起こさせる。

四角い展示室の外に出ると、石垣の《鞭うつ》(1925)が目に入る。出品作の中では一番大きなカンヴァスで、大きく前面に描かれた馬と鞭打つ男が一体化したような躍動感が見事な作品だ。3人の日系作家たちはニューディール政策の一環であるWPA(公開事業促進局)事業で壁画制作に関わっていたが、国吉と石垣は非米国人であるために解雇された経歴がある(*6)。戦後はアメリカのモダン・アートが西側世界を席巻するなか、彼らの作品は白人中心の「アメリカ美術史」からも前衛中心の「近代美術史」からも排除されてきた(*7)。だが彼らの視点からその時代を見直すと、数々の発見がある。例えば《鞭うつ》は独立美術家協会展に出品されたもので、当時無審査で出品できた同展は移民たちにとって貴重な発表の場であった。そしてその記念すべき1917年の第1回展は、モダン・アートの言説では《泉》が却下されたことでのみ記憶されているが、じつは国吉が画家として初めて参加したデビュー展でもあったのだ。
このように、越境する個人の歩みと「歴史」の交錯は、まさしく幾重にも折りたたまれたドシエ(dossier)のようであり、荒木と渡辺は詳細な年譜とともに、それを一枚一枚めくって光を当てていく。そこに荒木本人の軌跡も含まれていることは、彼が恐るべき長さと詳しさの自らの年譜──これ自体が作品と言っていいだろう──を作成したこと、そして幼い彼が家族とともにアメリカに初渡航する際の写真が本展のメインビジュアルとして使われている点からも明らかだ。展示の冒頭に位置するスティーグリッツの《三等船室》(1907)は、まさに航海中の船上で撮られているが、じつはこの船はアメリカから大西洋を渡ってヨーロッパに向かうところだという。だが「太平洋」という文脈から逸脱するようなこの写真こそ、展覧会の枠組みを攪乱しつつ拡張した《南蛮諜影録》へとジャンプし、始まりと終わりをつなぐ円環を形成しているのではないか。



















