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REVIEW - 2019.5.29

スマホ越しに交わされる視線と、その先に見えるもの。越智雄磨評「荒木悠展:LE SOUVENIR DU JAPON ニッポンノミヤゲ」

世界各地での滞在制作を通して、文化の伝播や誤訳、その過程で生じる差異や類似などに着目し、社会・歴史を背景にした映像作品を制作してきた荒木悠。そんな荒木の新作展となる個展が、東京・銀座の資生堂ギャラリーで開催されている。明治期に日本を訪れ、紀行文を残したフランス人作家ピエール・ロティの『秋の日本』と、芥川龍之介の『舞踏会』に着想を得た本展で荒木が見せるものとは? 演劇/ダンス研究者の越智雄磨が読み解く。

文=越智雄磨

展示風景より、《The Last Ball》(2019) 撮影=加藤健

視線は権力か、権利か

 「視線は権力である」。

 荒木悠による「ニッポンノミヤゲ」展の会場に足を踏み入れたとき、最初に抱いたのはそのような感想だった。展示室には、あるヨーロッパの舞踏会を思わせる映像が大小2つのスクリーンで上映されている。立派な髭をたくわえた欧州人の男性と赤いドレスを身にまとった日本人女性による対舞の様子がさまざまな角度からとらえられた映像が映し出されている。部屋の中央にいる4人の楽団は「美しき青きドナウ」を奏でている。来場者は、この男女の動きが通常のダンスとは異なる奇妙なものであることにすぐに気がつくであろう。男女は、いわゆるスタビライザーをつけたスマートフォンで互いを撮影しているのである。しかも、互いにスマホのカメラにとらえられることを避けるように踊っている。結果として、この男女は、つかず離れずの奇妙なワルツを踊る。

展示風景より、《The Last Ball》(2019) 撮影=加藤健

 この映像を創作するにあたって荒木が参照したというふたつの資料がある。ひとつは、明治18(1885)年、日本に来日していたフランス海軍将校のピエール・ロティ(1850〜1923)が自らの滞在記をまとめた書物『秋の日本』の中に「江戸の舞踏会」という体験記である。もうひとつは芥川龍之介がこのロティの体験記をもとに小説に仕立て上げた『舞踏会』である。

 ロティはその体験記の中で、彼はひとりの日本人女性と「美しき青きドナウ」を含めた3曲をともに踊ったことを記述している。荒木の映像インスタレーションは、この2人のダンスを主題としたものである。芥川龍之介はその想像力を駆使し、ロティの体験記で匿名とされている日本人女性を「明子」と名付け、明子の視点からこの舞踏会を記述した。荒木はロティの「江戸の舞踏会」と芥川の「舞踏会」を「ドキュメンタリー」と「フィクション」の関係になぞらえつつ、2人の視線の交錯を主題に据えた。

 ロティの「江戸の舞踏会」には、ヨーロッパを模倣する日本人に対する嘲笑と好奇の視線が刻印されている。その視線は、二重に権力的である。

 ひとつは、西洋から東洋に向けた視線(occidental gaze)である。当時、日本は欧州諸国に対して不平等条約を改正し、同等の立場であることを示すために、外務卿井上馨の主導の下、欧化政策を推進していた。「鹿鳴館」での欧州風の舞踏会はその政策の一環である。この外面的で卑屈にも見える欧化政策には反対意見が多かったらしい。当然ロティの目にも奇矯なものに映ったようだ。彼は、少なからず差別的な視線も交えつつ、鹿鳴館を「どこかの温泉町のカジノに似ている」と酷評し、燕尾服を着た日本の男性たちに対しては「猿によく似ている」と言う。ロティは優位な立場から「もの言わ(せ)ぬ他者」として日本を扱っているかのようである。『オリエンタリズム』の著者であるエドワード・サイードならば、ロティのエクリチュールの中に「19世紀から20世紀初頭に至るヨーロッパ植民地主義の横暴な執行者的姿勢」を読み取ったかもしれない。日本は植民地ではなかったものの、ロティの日本に対する見方はこれに近いものがあっただろう。

 そして、際立っているもうひとつの権力的な視線は「男性的な凝視」(male gaze)である。鹿鳴館への入場時から日本の女性たちへの少しちぐはぐな洋装への批判も含めて、女性たちの身体的特徴や立ち居振る舞いについて、見定めるように仔細に観察がなされている。舞踏会場にいた女性たちに対し「そのつるし上がった目の微笑、その内側に曲がった足、その平べったい鼻、何としても彼女たちは異様である」等と辛辣な感想を述べ、舞踏会中にあえて礼節を欠く挙動も行ってみせる。そうしたなか、ロティはダンスの相手としてひとりの女性を選んだ。「美しき青きドナウ」をともに踊った工兵将校の令嬢であり、芥川が「明子」のモデルとした女性である。

 展示に話を戻そう。荒木のインスタレーションの優れた点は、芥川の想像によるフィクションも踏まえながら、ロティの優越的な視線の権力を相対化する「明子」の視線を組み込んだことにある。展示空間の中空に吊られたスクリーンにはふたつのプロジェクターによって表側からと裏側から映像が照射される。

展示風景より、《The Last Ball》(2019) 撮影=加藤健

 いっぽうは、ロティ役の男性がiPhoneで明子をとらえた映像、もういっぽうは明子がロティをiPhoneでとらえた映像が映されている。後者は、ロティのエッセイには書き込まれていなかった女性側からの視点であり、ロティを見つめ返す視線が確かにそこに存在しているのだ。来場者は、相手を視線にとらえようとすると同時に、相手の視線から逃れようとする双方向的な視線のゲームとして見ることができる。もし「江戸の舞踏会」におけるロティの一方的な視線のみが映像化されたならば、映像理論家ローラ・マルヴィが『視覚的快楽と物語映画』で指摘したように、見ることの快楽を享受する能動的な立場が男性に割り当てられ、女性は受動的な視線のオブジェの役割(マルヴィの言うto-be-looked-at-ness)に甘んじていたことだろう。それでは、見る主体=男性と見られる客体=女性という男性的凝視の構造が再生産されてしまうことになる。

 しかし、荒木が仕組んだ視線のゲームは、スクリーンをふたつの視覚で挟み撃ちにするという映画ではできない表現手法で、視線の権力の非対称性をニュートラルなものに転換し、明子の視線がロティの行動を牽制するように作用していることを明示している。マルヴィ流のフィルム・スタディーズの映像理論を過去のものとするシンプルながら清新な効果を生み出している。

 各スクリーンの中のロティと明子がスマートフォンの画面(これもまた一種のスクリーンである)を通して相手を見合っていることを考え合わせれば、多層的なスクリーンからこの作品は成り立っている。換言すれば、スクリーンを通して対象を見るということが日常的な経験に溶け込んだ現代の現象をとらえようとする「スクリーン・スタディーズ」のパラダイムからとらえられるべきかもしれない。世に遍在するスクリーンが、世界の様々な相貌を映し出しているように、荒木の映像インスタレーションは歴史の中のいくつもの眼差しを受け止め、顕在化させ、融合させる場=スクリーンを創り出す行為のように思われる。

展示風景より、《The Last Ball》(2019) 撮影=加藤健

 奥の部屋にはさらに3つのモニタで映像が映し出されている。それぞれロティの『秋の日本』に収められた3つの紀行文「聖なる都・京都」「日光霊山」「江戸」の一部を切り取り字幕としながら、それぞれの現在の有り様を映し出している。こちらでも変わらず、ロティの偏見混じりの日本に関する観察が見られるが、「日光霊山」に関して言えば、ロティが日光東照宮に素直に感嘆していたことがうかがい知ることができ、その穏やかな眼差しに少し安堵もする。

展示風景 撮影=加藤健

 このように、「ニッポンノミヤゲ」展は、日本の歴史的転換点にあったひとつの出来事を起点として、歴史的、文化的コンテクストを背負った複数の視線が重層的に錯綜する場として構想されている。そこには、歴史を超えてロティの眼差しを見返すという荒木なりの新たな視線が付け加えられている。私たちは様々な眼差しを比較しつつ、さらには自分のスマホで展示されたスクリーンを撮影したりしながら、自分の視線をそれらの視線に重ね合わせることが可能なのだ。視線の権力を解きほぐす豊かな視線の重層性を提示してくれた展示空間を後にしたとき、「視線は権利である」と感じ始めていた。歴史に新たな相貌を与えるための。