その歴史は、誰にとって「正しい」のだろうか?
展覧会「Connections―海を越える憧れ、日本とフランスの150年」は、ジャポニズム時代の幕開けから始まる。クロード・モネをはじめとした当時の西洋画家達が影響を受けた葛飾北斎や歌川広重の大胆な構図の浮世絵版画から、黒田清輝や岡田三郎助のヌードと彼らが師事したラファエル・コランとの対比、そして、明治から大正時代への過渡期に萬鐵五郎・岸田劉生などの日本の洋画家からの熱烈な支持を受け、今もその信仰の根強いゴッホの作品など、日本とフランスの作家の交わりを、ポーラ美術館の潤沢なコレクションを中心に紹介する展覧会である。ロマンチックな異文化への憧れと「美の往還」を描き出す一方で、森村泰昌の《肖像(ゴッホ)》(1985)のように、自分自身を西洋人作家という他者に巧妙に変身させながら、それでもなお隠しきれない身体的特徴の差異を浮き彫りにする作品も紹介されている。ここでは、展示作家のひとりである荒木悠の新作《密月旅行》(2020)について考察したい。
本作は、プロローグとして美術館ロビーに位置するアトリウムギャラリーに展開している。ギャラリーの前面を覆うように設置されている大きな幕には、1955年に公開された映画『蝶々夫人』のプレスシートが転写されている。まさに本展がたどる明治から大正期の日本が舞台の同名のオペラは、その「間違った」日本文化・言語・人々の描写について、たびたび批判されてきた作品である。入り口手前に掛けられた写真には、和室の一間に座るスーツに身を包んだフランスの男性写真家、アドルフ・ド・メイヤーの姿が留められている。
ギャラリー内部に入ると、左手にプレスシートの幕の裏側に投影された映像作品、右手にいくつかの資料が目に入る。入口側から、アメリカのスパイであるアラン・ピンカートン著『The Somnambulist and the Detective』の書籍からはじまるが、ピンカートンといえば、『蝶々夫人』に登場する海軍士官と同姓である。その隣には、同じくアメリカの人類学者フレデリック・スタールの『Japanese Collectors and What They Collect』の巻頭の見開き2ページが額装されて展示されている。アドルフ・ド・メイヤーが足を崩していたのに対して、スタールは「正しい」座り方でカメラに収まっているのが印象的だ。続いて、映画『蝶々夫人』の婚礼のシーンのスチル写真や、スコット & リバースのCD『スコットとリバース』(披露宴の定番曲である木村カエラの「Butterfly」が収録されている)など、連想ゲームのような「Connections」が見出される。
映像作品は、アポロ11号の離陸時のカウントダウンとともに、アナウンサーのスズキと「晴れ舞台事情の専門家」イリサワの2人の男性のやりとりからはじまる。彼らの会話から、この映像が「月面基地ナガサキ」での男女2人の相生の儀の中継であることがわかる。ただし、海軍士官のピンカートンが写真家のアドルフ・ド・メイヤーに、仲人がフレデリック・スタールに置き換えられている。アドルフ・ド・メイヤーについては、複数の名前を使い分け、占星術師の勧めでファーストネームを変えた過去などが事細かに語られるいっぽうで、蝶々さんは15歳という年齢しか公表されない。イリサワは、占星術師との関わりからアドルフ・ド・メイヤーがスパイなのではないかと仮説を披露する。
フレデリック・スタールの苗字は文字通り「星さん」であるが、スズキは、新郎新婦のタトゥーを見て「なんだか星座みたいですね」と述べ、「ところで、正座というのは足に悪いのでしょうか?」ととぼけたコメントを続けていく。鑑賞者は、彼らの対話にどことなく不自然さを感じるかもしれないが、違和感は軽やかな笑いに誘われ、かき消される。ただし、終盤に差し掛かり、片方が「星座」について語り、もういっぽうは「正座」について応答することによって、つながっていると思われたダイアログが、実際は断片的な情報のモンタージュであることが垣間見える。ここで切り貼りされているのはイメージではなく物語であり、司会と専門家が、諜報員のように「情報を収集し、評価し、配布する」存在だと気づかされる。
映像作品を見終わるころには、スクリーンの役割を果たしている幕に穴が開けられており、外光によって夜空の星のようにキラキラと輝いていることに気づくだろう。それは、スパイが内部をじっくり観察するために開けた穴かもしれないのだが。
このあからさまな駄洒落での「正座」と「星座」の「Connections」によって、荒木は、「正しい」文化の真正性について問いかけている。専門家イリサワによって、「正座」という名詞が定着した歴史は浅く、明治以降に西洋文化に対抗する「日本式」の確立のためであったと語られる。イリサワの指摘は、かつて複数の地域で釣り針だと見立てられていた星座が、現在はギリシャ神話に由来する蠍座という恣意的な名詞で統一されている西洋主体の構造にまで及ぶ。
では、私たちが信じきっている「正しさ」とは何に依拠するのだろうか? 『蝶々夫人』の日本に関する描写を「間違い」だと摘発するのは、その「正しさ」について自身が当事者であると疑わない者である。他者に自己を探し出し、己の当事者性を振りかざして訂正しようとする行為─往々にして不毛な試みであるが─は、誰しも身に覚えがあるのではないだろうか。
これに対するのは、他者を自らに取り込むことによって自己を変化させる行為である。まさしく本展に登場する著名な芸術家たちのように、他者性を自己に内在させることに成功した者が生み出す表象が、既存の文化に変更を加えることを許されるのかもしれない。それでも、日本とフランスという国を並列したときに想起される二項対立の関係性は、まるで「正しい」文化の定位であるかのように存在し続けている。本作で荒木が仕立て上げた架空の物語は、150年前から「憧れ」と称される異文化への眼差しを撹乱するささやかな語りなのではないだろうか。