複製時代にオリジナルを辿る。荒木悠インタビュー

荒木悠は思春期をアメリカのナッシュビルで過ごし、近所にあるパルテノン神殿の原寸大のレプリカを見て育った。横浜美術館で2016年4月3日まで開催されていた「荒木悠展 複製神殿」では、ナッシュビルとギリシャの首都アテネにある「パルテノン神殿」をテーマにした新作を発表した。いま「複製」の時代に、荒木悠が見出す「真正」とはいったい何か? 作品のために実際に訪れた外国でのエピソードとともに、作品制作について語ってもらった。

《複製神殿》(2016)の展示風景 撮影=山中慎太郎

──まずは、今回のテーマに至った経緯など展覧会についてお聞かせください。

小さい頃にアメリカのナッシュビルにある複製のパルテノン神殿の近くに住んでいて、神殿のある周りの公園でよく遊んでいました。神殿の室内は美術館になっていて、高校時代に初めてのグループ展をした場所がその地下の市民ギャラリーでした。今回の個展の下見で横浜美術館のアートギャラリーを見たとき、ナッシュビルのパルテノン神殿の地下ギャラリーとそっくりだと思いました。もちろん横浜美術館の建築そのものも神殿の地下ギャラリーを彷彿とさせるのもありますが、入ってすぐのシンメトリーのグランドギャラリーの雰囲気だったり、横浜美術館アートギャラリーとナッシュビルの神殿の地下ギャラリーの柱がよく似ていたり、横浜美術館とナッシュビルの神殿が重なって見えることがあり、そのときに「パルテノン神殿」が良い題材になるのではないかと思いました。言語の壁に悩んでいた高校生の頃は、学校で認めてもらいたいと得意だった美術に打ち込み、グループ展では自画像を発表しました。いま振り返ってみると、パルテノン神殿は自分自身のアーティストの起源だったと思います。だから、13年ぶりにパルテノン神殿をふたたび取り扱うということは、ある意味、自己模倣と言えるかもしれません。

左は《Searching the Original》(2016)、右は《キャスティング・スタディーズ》の展示風景(2016) 撮影=山中慎太郎

今回の展示は、横浜でパルテノン神殿を再現するイメージでインスタレーションを構成しました。会場に入ってすぐ投影されている映像は、ナッシュビルのパルテノン神殿のファサードで、そのファサードの反対側には異なるファサードの映像がありますが、これはスコットランドのエジンバラにあるスコットランド国立記念碑です。その奥には5つの画面による映像作品《キャスティング・スタディーズ》(2016)を配置し、それらは神殿の上部の装飾であるメトープを意識しています。

当初はナッシュビルの複製とオリジナルの神殿を撮影し、表裏の2面スクリーンでそれぞれの映像を投影する予定でした。ナッシュビルで映像を撮り終え、アテネに向かったのですが、パルテノン神殿の撮影許可を得ることが困難を極めました。現地で頭を抱えていたときに、撮影のために滞在していたレジデンスのディレクターから、エジンバラにもパルテノン神殿の複製があると教えてもらいました。その神殿はナポレオン戦争の戦没者の記念碑として1820年代に着工しましたが、資金不足のため未完に終わり、「スコットランドの恥辱」と言われているそうです。いまだにファサードだけしか存在せず、書き割りのようであまり趣が感じられません。最終的にその滑稽な印象が功を奏して、この作品は予定よりも良い仕上がりとなりました。

エジンバラも「北方のアテネ」と呼ばれており、ナッシュビルも知識人たちを集めて「南部のアテネ」にしようという動きがありました。アテネにあるオリジナルのパルテノン神殿は撮影することはできませんでしたが、結果的に南と北の「アテネ」同士を結ぶプロジェクトに帰着しました。

── 本展のメイン作品とも言える「オリジナルを探す」という題名の映像《Searching the Original》(2016)は、なぜパルテノン神殿に使われている大理石を探す旅の物語になったのでしょうか。

実はわざわざアテネを訪れて、いよいよ本物のパルテノン神殿を見たとき、正直がっかりしてしまったんです。オリジナルへの期待が大きすぎたのかもしれません。ナッシュビルのレプリカと大きさがまったく同じですから、妙な既視感がありました。この作品の原作として使用したトーマス・マンの『幻滅』(1896)に「私はほうぼう歩き廻って、世界でも最も高名な場所を訪うたり、または人類が最大級の言葉とともに、そのまわりを躍り廻っているような芸術品を見に行ったりしたものです。その前に突っ立って、私は独りごとをいいました。──これはみごとなものだ。しかし、こうもいったのです。──だが、もっとみごとなものじゃないのか。これだけのことなのか」という記述があります。実物と対峙したときに想像と現実の落差に幻滅してしまうとは、まさにこのことだと思います。

荒木悠 複製神殿コンセプトスケッチ 2015 デジタル・コラージュ © Yu Araki

そこで、アテネのパルテノン神殿のオリジナルたるゆえんを、素材の大理石が採れた場所まで辿ることで明らかにしたいと思いました。アクロポリスの建造物は全部同じ山からの大理石で出来ているといわれていて、その石切場をみてみたいと思い、アテネ郊外にあるペンテリコン山まで行きました。しかしその場所がなかなか特定できず、何日もかかってしまったんです。ようやく辿り着いたら、たまたま洞窟の中でロック・バンドがミュージック・ビデオを撮影していたんですね。石(=rock)を探しにいったのに、まさかの音楽の方の「ロック」に出会った、という展開でした(笑)。

それから考えたのは、絶対的なものに対する近代の憧れがオリジナルという概念を神格化してしまった、ということでもありますね。しかしその反面、オリジナルもコピーがないとオリジナルにはなれない。詩人で映画監督のジャン・コクトーはこう言っています。「An original artist is unable to copy. So he has only to copy in order to be original」と。逆説的なこの言葉はオリジナルとコピーの関係について的を得ていると思ったので、作品の冒頭に引用しました。

そもそも日本における「藝術」という概念は西洋から輸入されてきたものであり、ギリシャに西洋美術の原点が残っているのであれば、この目で見ておきたいと思いましたが、これすらもつくられた歴史なのです。現在のギリシャ共和国は1829年にオスマン帝国から独立した比較的新しい国家です、ギリシャは長い歴史のなかで政治的に占領されたこともあって、アイデンティティ・クライシスを経験してきたと言えます。現代のギリシャは、いわゆる古代ギリシアとまったく別のものですが、だからこそあえて我こそ古代ギリシア人の子孫であると主張せざるを得ないように見えたのも本音です。

アテネで1896年に開催された第1回近代オリンピックのために改装されたスタジアムを見ても、古代オリンピックを積極的に模倣して、現代において神話をふたたびつくりあげているようでした。だから、「authenticity(真正であること)」を追究して由来や起源を調べていくと、意外にも恣意的だったりします。でも私はつくられていく伝統というものにとても興味を持ったんです。

──《Fig.》(2016)では、ナッシュビルでともに暮らした家族の末っ子、ルーカスの幼い頃の写真と類似するポーズの古代ギリシア・ローマ時代の彫刻のスライドを交互にプロジェクターで投影しています。なぜ両者を併置したのでしょうか?

ルーカスとは年齢はひと回りほど離れていますが、小さい頃から兄弟のように育ちました。しかし血のつながった家族ではなく、私はアメリカと日本を行き来していたこともあって、アルバムを見ていると僕の知らないルーカスもいて彼との断絶の時間があることを実感したわけです。

同じことが古代ギリシア彫刻にも当てはまるのではないかと思いました。現代の私たちは古代ギリシア彫刻を断片でしか見ることができません。だから、私の知らないルーカスも古代ギリシア彫刻も、私にとっては同等とも言えるのです。タイトルの《Fig.》というのも、展覧会のカタログなどで使われる図版、人物、形象といった意味があります。写真も彫刻も、あえて並置させ、本来まったく関係ないにもかかわらず類似しているように見せる構造にしています。

荒木悠 Searching the Original 2016 HDビデオ © Yu Araki

また、ルーカスがきっかけで《Searching the Original》を制作しました。久しぶりにアメリカに帰ったとき、空港に迎えにきてくれた彼は、身長が伸びて8頭身くらいで、ポリュクレイトスのいう抜群の「カノン」を想わせました。あるとき彼がソファでくつろいでいる姿が葡萄酒と演劇の神として知られるディオニュソス像の彫像と重なり、その姿を見せたいがためにストーリーを考えたと言っても良いくらいです。

── パンをつくったり、キャンバスを貼る人の手元を映した5面の映像作品《キャスティング・スタディーズ》のタイトルの一部である「キャスティング(=casting)」とは英語で「配役」と「型取り」の意味があって、ダブル・ミーニング的に用いられています。荒木さんにとって言葉は、作品を制作するうえで、どのような位置付けにありますか?

若い頃に長い間アメリカで住んでいましたが、初めの頃は母国語も外国語もどっちつかずという言葉の壁に葛藤していました。また、今は通訳の仕事もしていて、それらの経験をもとに言葉からの連想によって作品を発想することはあります。通訳の仕事では、正しく伝達するため精度の高い翻訳を心がけているのですが、つい間違えて誤訳してしまうこともあります。しかし一方で作家としての自分は、思いもよらなかったものがつながりあう言葉の飛躍の可能性を感じておもしろいと思ってしまいます。

私は何かを手順通りに行うのがもともと苦手なんです。手順が重要な彫刻を大学の学部では専攻していたのですが、向いていないと感じ、映像を制作するようになりました。子どもの頃も、プラモデルでさえも説明書通りにうまくつくれませんでした。しかし、好きなようにパーツをつなげ、最後に見たことのないかたちが出来上がることに魅力を感じました。言葉もいろいろな意味を含有し、さまざまにぶつかり合う球体だと思っています。それを無理やりくっつけることによって、新たな意味が生まれる。その点は映像のモンタージュととてもよく似ていますね。

──現代はデジタルな写真や映像があふれる複製の時代といえます。複製は個展のメインテーマでもありますが、複製から読み取れる、あるいは起源を辿ることによって明らかになる真正についてどのようにお考えですか?

私が複製に興味を持ったのは、自分自身も「ニセモノ」ではないかと感じることがあるからです。僕は日本とアメリカの2か国間で育ったので、それぞれの文化圏で振る舞い方が異なる自分は分裂しているようで、まるで二重人格のように感じることがあります。その分裂しているイメージが鍵となり、この展覧会のために撮影したアーティストインタビューでは、英語で答えている自分の映像に、後から自分で日本語の吹き替えをしました。吹き替えしてみると自分で自分の言葉を信じられないという違和感に気づき、その気持ち悪さこそ自覚しながら、そのまま提示する試みとなりました。

自分のアーティスト像についても、どこかつくられたものであって、自分で自分を模倣しているのではないかと思うことがあります。僕が制作している映像作品はすべてパソコンのなかで完結してしまうので、本当にものをつくっているのだろうかと、たまに不安になることがあります。だからこそ物事の由来や起源を知りたくなるのかもしれません。今回は、「authenticity(真正であること)」の拠りどころであるパルテノン神殿の真正性をあえて問い直してみたいと思いました。古代ギリシア様式は時代のニーズに合わせてたびたび引用されており、ナッシュビルやエジンバラの神殿もその一例です。

荒木悠 ペーネロペーの手 2015 HDビデオ © Yu Araki

《キャスティング・スタディーズ》で撮影している、手を動かして何かを生み出している被写体の5人は、ものをつくることのできない僕にとっての憧れの存在です。彼らの体得している仕草や手つきは、絶対に演技では出せないような表情をしています。彼らが繰り返しているのは彼らにとっての日常行為ではあるのですが、その行為を繰り返すことに真正のヒントがあるのではないか。5画面の1つ《ペーネロペーの手》(2015)では、女性が手の鋳型をつくっていますが、僕は手の像そのものよりも、作品に至る前の型をつくる方に、その純粋に打ち込んでいる姿に崇高さを見出してしまいました。真正を探し求め撮影を続けていたのですが、結果的に何かをつくる人物の手元をカメラに収めているときにさまざまな発見がありました。

© Yu Araki

いつも海外で作品を制作するときは、先入観にとらわれないよう事前にリサーチをあえてせず、現地で自分が気になった事柄に反応できるようにしています。情報があふれる現代では調べれば調べるほど、何を信じたらいいのかわからなくなってしまいますから。だからこそ、自分の目で見て感じることが重要だと思っています。とはいえ、たびたび思い描いたものには辿り着けない現実を突きつけられます。しかし、その現実でさえ、自ら足を運んでしか知ることができません。《複製神殿》では2つの神殿の周りを私が延々と走ることによって、パルテノン神殿のオリジナルと複製をめぐって、自分が堂々めぐりしている様子を表現しています。逆説的ですが、辿り着けないとは知りつつも「authenticity(真正であること)」を目指さずにはいられないのです。

PROFILE

「囚われ、脱獄、囚われ、脱獄」http://yuaraki.com

編集部

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