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2022.4.25

二枚貝が紡ぐ「繋がり」への希望。岩垂なつき評「荒木悠個展 双殻綱:第二幕」

荒木悠が2017年に無人島プロダクションで開催した個展「Bivalvia: Act I|双殻綱:第一幕」に続く、第二幕となる展覧会「双殻綱:第二幕」(2022年1月29日~2月27日)。左右に分かれている二枚貝のように、「右殻」「左殻」を彷彿させる2つの異なる映像作品で構成したインスタレーションを中心に据えた本展から見えてくる「希望」とは?

文=岩垂なつき

荒木悠「双殻綱:第二幕」展示風景より(無人島プロダクション、東京、2022) Photo by 森田兼次 Courtesy of the artist and MUJIN-TO Production
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 荒木悠による無人島プロダクションでの個展「双殻綱:第二幕」は、2017年に開催された「双殻綱:第一幕」に続く展覧会である。タイトルの「双殻綱(Bivalvia)」とはカール・フォン・リンネの分類学に基づく名称で、二枚貝のことを指す。第一幕では荒木の個人的な体験による喪失感と西洋絵画における「ヴァニタス(虚無)」の象徴の一つである貝殻とが結びつき、「生と死」についての物語がインスタレーションとして展開されていた。第二幕となる本展は、二枚貝のように繋がる2つのスクリーンによる映像作品を中心に、昨今の社会状況における「分断」への問いと、「繋がり」への願いがテーマとなったインスタレーションである。

荒木悠「双殻綱:第二幕」展示風景より(無人島プロダクション、東京、2022) Photo by 森田兼次 Courtesy of the artist and MUJIN-TO Production

 本展の中核をなす映像作品は、平安時代の娯楽である貝合わせから着想を得たという。右と左のスクリーンに映し出される映像は、「距離をめぐる11の物語:日本の現代美術」(国際交流基金)と「Returning: Chapter 1」(シドニー・オペラハウス)という二つの展覧会のために同時期に制作されたものであり、本展で「貝合わせ」が実現されたといえるだろう。左右どちらのスクリーンでも、それぞれ尺の違う断片的な映像が連続再生され、一対の映像としては無限の組み合わせを生み出していく。水中を漂う貝、インタビューを受ける女性の顔、海岸、カラオケでオペラを歌う貝、ベッドの上でまどろむ男性と貝……。時間も空間も異なる場所で撮影された場面の組み合わせは、ときおり連関したものとして映し出される瞬間があり、貝合わせでつがいとなる貝を探すような期待と希望がある。ここには荒木の「繋がり」への願いが込められており、それは映像とともに再生される音楽にも反映されている。荒木は本展の映像のため、現存する世界最古のオペラと言われる『エウリディーチェ』のオリジナルの譜面を、実際のオペラ歌手に歌唱してもらったのだという。このヤコポ・ペーリによる『エウリディーチェ』は、ギリシア神話をもとに、結婚式の当日に蛇にかまれて命を落とした花嫁のエウリディーチェをオルフェーオが冥界から取り戻すために旅に出る物語であり(*1)、荒木はここに「分断」したコロナ禍の状況を重ねている。渡航や移動が制限され、集団でのイベントの禁止や、大人数での外食の制限、マスク着用の強制は、人との直接的なコミュニケーションを希薄にするもので、私たちは愛する人を奪われたオルフェーオさながら、繋がることを求めているのである。そしてオペラ『エウリディーチェ』のラストでオルフェーオがエウリディーチェを無事に連れ戻し、大団円を迎えるように(*2)、荒木はふたたびの「繋がり」に希望を託している。

 また本展は映像のほか、牡蠣の殻の中身を象って制作されたアクリル樹脂と、荒木自身の手を象った石膏による彫刻作品、映像の一場面を切り取った平面作品、二枚貝の上に乗る女性たちの古写真から制作した顔ハメパネルで構成されている。なかでも彫刻作品《Silence (Prototype)》は本展の構想のもとになった作品であり、全体のコンセプトを象徴的に示すものであるといえるだろう。閉じた貝の内側をアクリル樹脂で象った「中身」はまるで人の舌のようでもあり、そこには手がそっと触れようとしている。「Oyster(牡蠣)」は、英語圏では「無口な人」を意味する言葉でもあるという。コミュニケーションが制限され、世界が沈黙のなかにあるかのようなコロナ禍の状況は、まさに「Oyster」と表現できるのではないだろうか。そしてその閉ざされた中身に触れようとする本作は、生身のコミュニケーションへの人々の渇望を代弁しているかのようである。さらに牡蠣の中身の舌のような形状は、身体の一部としての「舌」を伴って私たちが言葉を発していたことを改めて思い起こさせる。今、それはマスクの下に覆い隠されてしまっているが、この生々しい器官によってはじめて、私たちは言葉を紡ぐことができるのである。

荒木悠 Silence(Prototype) 2022 樹脂、石膏、鏡、ガラス、ヴィンテージ・テーブル (C)Yu Araki Photo by 森田兼次 Courtesy of the artist and MUJIN-TO Production

 このように、本展ではコロナ禍のコミュニケーションの「分断」をとらえる荒木の独自の視点が、ふたたび「繋がる」ことへの希望とともに表現されていると考えられる。しかし、作品の解釈として、それだけではやや短絡的だろう。なぜなら私たちのコミュニケーションにおける「分断」とは、そもそもこの今に始まったことではないからだ。

 1981年、ジャン・ボードリヤールは著書『シミュラークルとシミュレーション』のなかで、現代においては仮想的な「シミュレーション」が現実に先行することを示した(*3)。この「シミュレーション」とは、実在しないが、現実のモデルから形づくられたもっともらしい「ハイパーリアル」であり、ボードリヤールは主に種々のメディア(ボードリヤールが著書の中で挙げているのはテレビ、映画、広告等である)内のイメージを指している。このシミュレーションが現実に先行する世界においては、私たちはなんらかの対象を見るとき、対象そのものではなく、メディアのなかに氾濫する情報からつくり出された、記号としてのイメージを見るのである。ボードリヤールの指摘から40年以上が経っているが、ソーシャルメディアが発達し、無数の情報が連関的に生成されていくこの時代において、それはいっそう加速しているのではないだろうか。人々が目の前のものを自ら感じ、考える機会は著しく奪われており、あたかも自らがコンピューターになったかのように、目の前の対象を捉えるための情報をメディアの海から探し、現実に当てはめていくのである。

 荒木の映像のなかで印象的な場面がある。一人の女性がインタビューを受けているのだが、彼女はいずれの質問にも顔をしかめながら口をもごもごと動かすだけである。じつは彼女の口の中には、牡蠣の中身を象ったシリコン製の造形物(*4)が入っており、解答しているにもかかわらずそれが言葉としては聞こえず、「Oyster(無口な人)」に見えていたというわけである。荒木はこの場面を制作する際に、「撮る側」と「撮られる側」の関係性を意識したという。映像における一場面に対象を収めるとき、撮影する側は対象が本来持っている様々な性質を判断し、取捨選択し、のちのちの編集という作業も経て、現実とは別のイメージをつくり上げる。このプロセスにおいては「撮る側」が圧倒的な主導権を握り、「撮られる側」は何も訴えることはできず、ただ身を任せるしかない。

 荒木の映像における女性へのインタビューの場面は、私たちの「見る」視線を同時に顕在化させる。ユーモラスでありながらどこか暴力性を伴うこの場面によって、私たちが現実においても、目の前の人(あるいは物)に対し、「撮る側」と同様のプロセスで向き合っていることに気づかされるのである。誰かを目の前にしたとき、メディアの情報に照らし、スクリーン上に一場面をつくり出すかのように、その人のある部分を誇張し、ある部分を取り除くことで仮想のイメージをつくり上げる。そしてそのとき、本来的にその人が携えていたはずの性質の豊かさは棄却されてしまい、結局は、その人自身ではなく「その人的なもの」と対話をしているのだ。映像のなかで女性が受ける質問には「幼少期のトラウマってありますか?」や「あなたの一番の秘密はなんですか?」など、プライベートにより深く踏み込んだものもある。しかし、このような質問にも、彼女は口の中に別の「舌」を入れているゆえに、伝えている言葉を私たちが聞き取れるように発することができない。これは目の前の対象が本来訴えていることを、私たちが現実でもいかにないがしろにしているかを示唆するように思える。現実はすべてスクリーン上にあるかのように統制され、編集された仮想的なイメージとして私たちの目の前に現れており、スクリーンに映らない余剰のすべては消し去られてしまう。

荒木悠「双殻綱:第二幕」展示風景より(無人島プロダクション、東京、2022) Photo by 森田兼次 Courtesy of the artist and MUJIN-TO Production

 ボードリヤールはまた、『シミュラークルとシミュレーション』から数年後に発表した論考「コミュニケーションの恍惚」において、「われわれ自身の身体やそれを取りまく宇宙全体が制御スクリーンと化している」と述べている(*5)。論考では、その現実的な要因としてテレビが挙げられているが(*6)、現在ではパソコンやスマートフォンを付け加えることができるだろう。私たちにとってはもはやスクリーン上の世界こそがリアルであり、身体性を伴った現実は限りなく曖昧なものになっている。そして昨今、この曖昧さを顕著に実感させられる例が、コロナ禍でより発達したオンライン上でのミーティングツールである。ここではスクリーン越しに互いの姿を見ることはできるが、アプリケーションを使えばいかようにも外見を変えることが可能であり、むしろ身体というものが存在しないことの方が好都合ではないかとさえ思える。

 だからこそ、本展では荒木による彫刻作品が、ある種の神々しさすらも湛えて立ち現れる。生身のコミュニケーションの象徴としての貝の「中身」、そして身体の一部として言葉を伝える「舌」とのふたたびの出会いは、失われつつある身体性との再会なのである。コロナ禍、そしてそれよりずっと前からコミュニケーションの「分断」を経験してきた私たちにとって、この出会いは震えるほどの喜びをもたらすものだろう。世界が今後、脱コロナへと向かっていくとすれば、人々のコミュニケーションに対する問題意識は薄れていくかもしれない。しかし、それでもテクノロジーの発達と比例して「分断」は加速し続けていく。ゆえに本展を通じて響く荒木のメッセージは存続すべきものであり、いつか生身の身体すべてで感じる光景と、舌によって紡がれる言葉に、人々がふたたび出会うことを願う。

荒木悠「双殻綱:第二幕」展示風景より(無人島プロダクション、東京、2022) Photo by 森田兼次 Courtesy of the artist and MUJIN-TO Production

*1── 山田治生ら編・著『バロック・オペラ-その時代と作品』公益財団法人新国立劇場運営財団情報センター、2014年、12頁参照(Web版)。
*2──オペラのモチーフとなったギリシア神話では、オルペウスが冥界の王の言いつけを守らず、旅路の途中でエウリュディケーの方を振り返ってしまったことから彼女を結局失ってしまう、という悲劇的な結末であるが、ペーリのオペラは当初婚礼の際に上演されることを目的としたため、ハッピーエンドに変更されている。アポロドーロス『ギリシア神話』高津春繁訳、岩波書店、1994年、32~33頁参照(原著は訳者によって紀元前1~2世紀ごろと推定されている)。
*3──ボードリヤールは現代の「シミュレーション」について「領土、照合すべき存在、ある実体のシミュレーションですらない。シミュレーションとは起源(origire)も現実性(réalité)もない実在(réel)のモデルで形づくられたもの、つまりハイパーリアル(hyperréel)だ」と述べている。 ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』竹原あき子訳、法政大学出版局、1984年、1~2頁(原著1981年)。
*4──このシリコン製の「舌」ともいえる造形物は、先に言及した《Silence (Prototype)》と同様のプロセスによって、本展の作品に先んじて異なる素材で制作されたものである。
*5──ジャン・ボードリヤール「コミュニケーションの恍惚」ハル・フォスター編『反美学-ポストモダンの諸相』室井尚・吉岡洋訳、勁草書房、1987年、232頁(原著1983年)。
*6── ボードリヤールは「テレビの映像とともに―テレビはこの新時代の究極的で完璧な客体となっているが―われわれ自身の身体やそれを取りまく宇宙全体が制御スクリーンと化しているのだ」と述べている。同書、232頁。