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豊田の橋の下で世界(アンダーグランド)が動く。椹木野衣評「橋の下世界音楽祭 SOUL BEAT ASIA 2024」

愛知県豊田市の豊田大橋の下にある公園を会場とした音楽祭「橋の下世界音楽祭 SOUL BEAT ASIA 2024」を美術批評家・椹木野衣が評する。ファインアートが大半を占める既存の「芸術祭」とは対照的とも言えるこの橋の下の音楽祭。いったいどのようなイベントで、どのような仕組みで開催されているのだろうか。2024年度の出演アーティストを含めて紹介する。

文=椹木野衣

亀島楽隊(TURTLE ISLAND)による公演の様子

豊田の橋の下で世界(アンダーグランド)が動く

 「橋の下世界音楽祭 SOUL BEAT ASIA」(以下、「橋の下」)の噂は、かねてから聞いてはいた。が、会場が豊田と知っても豊田市美術館くらいしか行ったことのなかったわたしは、街中にかかる巨大な橋(豊田大橋=設計は黒川紀章)の真下に位置する「千石公園」で「世界音楽祭」が繰り広げられる場面がなかなか想像できなかった。加えて仕事柄、「芸術祭」と名の付く催しは日本列島の津々浦々に至るまで見てきたが、「音楽祭/フェス」にはなかなか足が向かわなかった。もっとも、両者のあいだにいつの間にか垣根を設けてしまっていたわたしの考え自体が、「祭り」にそぐわないものであった。祭りは、そこに参加する者の知覚の総体をゆるゆると、時に一斉に持ち上げて奥底から刺激する。故に祭りでは、美術と音楽を分けることなど到底できない。

 もとより、いつの間にか両者を棲み分けさせてしまっていた文化の制度化(例えば美術館かコンサートホールか、長期開催の展覧会形式か、短期開催のイベント形式か、というように)へのオルタナティブとして、2000年初頭に「芸術祭」は立ち上がったのではなかったか。その点で言えば、ありとあらゆる垣根を取り払い、感覚の坩堝と呼べる原点へと一気に回帰させ、「来るべき祭り」をいち早く先取りしてきたのが、ほかでもない「橋の下」であった。「橋の下」は、言葉の真の意味で「芸術祭」であると同時に、再制度化されつつあった既存の「芸術祭」に対する、痛烈なカウンターでもありえたのだ。

 では、いったい何が「言葉の真の意味」なのか。「橋の下」が持つ最大の特徴は、なによりもまず「手づくり」ということだろう。そこからして文化/公共事業としての芸術祭とは根本から違っている。そもそも「橋の下」は、地元を拠点に活動するバンド「TURTLE ISLAND」の永山愛樹(よしき)やレーベル「microAction」をはじめとする有志らによる実行委員会によって企画・主催されている。が、ここであえて手づくりを強調するのは、ほかでもない。「橋の下」は手づくりであることで、かえって公共事業では克服するのが難しい高いハードルを乗り越えているのだ。

 例えば、河川は大型の芸術祭でも会場として使用するのがもっとも難しい場所のひとつだが、先の永山は、粘り強く障壁をクリアし、独自に国(国土交通省)の許可を取り付けている。またエコロジーやリサイクル、SDGsやサーキュラーエコノミーが「免罪符」のように語られる世情にあって、あえて「ゴミ」や「廃材」といった負のニュアンスを持つ言葉を重視し、会場そのものが主にゴミや廃材をもとにつくられている。

 そればかりか、ゴミは拾い集められることで「橋の下」だけで使える「通貨」と交換され、子供たちが競ってゴミを集める景色をそこここで見ることができる。実際、会場では大所帯の家族連れが多く見かけられ、ほかの芸術祭やフェスとはその点でも大きく異なる。これは会場が豊田市駅から容易に歩いて辿り着ける位置にあるという地理的条件もあるが、もともとが投げ銭で始まり、事業やビジネスとはかけ離れた出自を持つことによる(現在でも入場料は全日3日間の前売りサポーターズパスで6000円というフェスとしては破格の設定)。こうしたオルタナティブな姿勢は「橋の下」を土台から支える電力にも及び、会場で使用される電気はすべて太陽光と持ち寄りの電源によって供給されている。これは「橋の下」の最初の構想が、東日本大震災で発生した原発事故や被災地への訪問から生まれたことによっている。つまり「橋の下」は、2000年を元年とする日本列島での公共事業としての「芸術祭」が、11年の大震災を契機に次の段階(手づくりの徹底=ハードコア次元)に入ったことを意味している。

本丸エリアに設営された横丁では飲食や特産品などを販売
下諏訪町木遣保存会による公演の様子

 つい、初見者ならではの発見や前振りが長くなってしまったが、そもそもわたしが今回「橋の下」へ向かったきっかけは、ここ数年足繁く通う長野県諏訪で7年に一度開かれる「御柱祭」に伝わる木遣り唄を伝承保存する地元の有志「下諏訪町木遣保存会」が出演者として招かれたことによる。だが、その同じステージ「下町」で翌日には、地元の愛知を拠点に40年以上にわたり活動してきたパンク・ロックバンド「the 原爆オナニーズ」がモッシュやダイヴを繰り広げるのだ。が、不思議と違和感がない。既存の「芸術祭」で取り上げられるのは、国籍や地域こそ多様でも、圧倒的に「ファインアート」が大半を占めているのと対照的と言っていい。また、子供や家族連れが重視されていることから、中央のステージ「本丸」前では獅子舞など誰でも気軽に参加できるプログラムも組まれている。といっても、この獅子舞の迫力が半端ではなく、どこかコミカルでも子供にはかえって恐ろしい「アンデミノルムセ(韓国獅子舞)」や、兵庫県姫路市大塩町に伝わり、多人数の男たちが入れ代わり立ち代わり中に入り獅子を乱舞させる「大塩町獅子舞(中之丁)」など、同じ「獅子舞」でもこれほどに多様なのかと驚かされた。

アンデミノルムセ(韓国獅子舞)による公演の様子
大塩町獅子舞(中之丁)による公演の様子

 しかし、そんななかでは、「芸術祭」では比較的知られた存在の「切腹ピストルズ」(以下、ピストルズ)こそ本領を発揮しているように見えた。野良着で和太鼓や尺八、笛、三味線や鉦(かね)をパンキッシュに打ち鳴らすピストルズの世界は、「ニホンオオカミの残党」を自ら称し、遠吠えを多用することから、わたしの故郷でもある秩父の山地を思い起こさせた。秩父神社で例年12月3日に頂点を迎える「秩父夜祭」は、華やかな山車群を人力で急坂から引き上げ結集させる修羅場を囃し立てる「秩父屋台囃子」で知られるが、わたしにはピストルズの囃子がこの屋台囃子に極めて近いものと受け取れた。秩父は明治時代に「革命」を唱える「困民」によって起こされ、最終的に政府軍によって鎮圧された「秩父事件」でも語られるが、もしや「ニホンオオカミの残党」とは「秩父百姓一揆の残党」とも読み替えられるかもしれない。

切腹ピストルズによる公演の様子

 が、今回の「橋の下」でわたしがもっとも心身ともに揺さぶられたのは、中日の土曜夜、突然の豪雨で会場がぬかるみと化した後、「ピストルズ」と同じステージ「下町」に颯爽と登場した「珠洲ちょんがり保存会」だった。今回の「橋の下」では、能登半島地震の被災地から出張で地元の飲食や特産物を販売する「奥能登横丁」が設けられ、わたしも初日から能登の酒や肴を堪能していたが、今回披露された「珠洲ちょんがり保存会」による「ちょんがり踊り」の再現は、時間こそ限られていたものの、夜を徹して繰り広げられる様がありありと想像できる無際限な世界をつくり出していた。ここで「橋の下」の特設サイトで公開された同保存会からのメッセージを引用する。

元日の能登半島地震で珠洲市内は壊滅状態となり、保存会員の歌い手男性一人が地震の津波に襲われ亡くなり、会員の家屋も被災倒壊しました。
今回の震災で、気力や体力も無くなり5月17日の打合せ会では保存会を解散しようと話していた矢先に、「橋の下世界音楽祭」出演の暖かい便りが届き、「希望と元気」を取り戻したところです。
本日は、能登半島の震災復興の為にも頑張って歌い踊りますので、よろしくお願い申し上げます。

 奥能登が「橋の下」終了直後に発生した集中豪雨によって、元旦の震災と併せ二重の被災を余儀なくされたことには天を仰がざるをえない。どうか「希望と元気」をいま一度取り戻してほしいと祈らずにはいられない。

珠洲ちょんがり保存会による公演の様子

『美術手帖』2025年1月号、「REVIEW」より)

編集部

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