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2024.3.5

能登半島地震から工芸をいかに考えるか。秋田市文化創造館のクロストーク「『工芸と天災』レポート

令和6年能登半島地震で大きな被害を受けた現地の伝統工芸。これを受けて秋田市の秋田市文化創造館でクロストーク「『工芸と天災』—能登半島輪島市の現状報告と、天災後に作家が何をできるか考える。」が開催された。そのハイライトをレポートする。

文・撮影=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長)

左から田村一、赤木明登、攝津広紀、佐藤祐輔、石倉敏明
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 秋田市の秋田市文化創造館で、令和6年能登半島地震を受けたクロストーク「『工芸と天災』—能登半島輪島市の現状報告と、天災後に作家が何をできるか考える。」が3月4日に開催された。

 本クロストークには赤木明登(輪島塗)、攝津広紀(川連塗)、佐藤祐輔(新政酒造)、石倉敏明(芸術人類学)、田村一(陶芸)が登壇。前半は輪島塗の塗師・赤木が能登輪島の漆産業の歴史や被害の現状を報告し、輪島で修行した経験もある秋田・湯沢の川連塗の攝津とともに、今後の地域内外での連携、協力体制について意見交換をした。

秋田市文化創造館

 後半は、赤木が震災後に実施している「小さな木地屋さん再生プロジェクト」が紹介。加えて、2011年に益子で被災した田村が、当時の状況・心象を振り返り、災害下における個人的な、また作家としてのあり方、活動支援について佐藤や石倉とともに問題提起を行った。

 前半は田村をモデレーターに、赤木と攝津が登壇した。田村は1973年秋田県生まれの陶芸家。早稲田大学大学院修了後、東京で作家活動を開始。2002年に栃木・益子町に拠点を移し、さらに2011年より秋田県に戻り太平山の麓の工房で作陶に励みながら、「ココラボラトリー」(秋田)、「白白庵」(東京)などでの個展や、グループ展で作品を発表している。

 赤木は、1962年岡山県生まれの塗士。編集者を経て1988年に輪島に移り。輪島塗の下地職人・岡本進のもとで修業、94年独立。以後、輪島でうつわを作り各地で個展を開いてきた。

 そして攝津は1969年秋田県湯沢市生まれの蒔絵師だ。石川県輪島で技術を習得。93年より金沢にて加賀蒔絵、金沢仏壇蒔絵を学ぶ。99年に秋田に帰省し、蒔絵師の三代目として家業を継いで、800年の歴史ある漆器の産地「川連」にて「漆工房攝津」を営む。

左から田村一、赤木明登、攝津広紀、佐藤祐輔、石倉敏明

輪島の漆産業の現状

 クロストークはまず、赤木による震災直後の状況や現状の報告から始まった。震災当日県外にいた赤木は、地震の報を受けて移動し4日に帰宅。工房内内部の家具や材料は散乱していたが、耐震化されていたので建物自体への大きな被害はなかった。こうした事例は「伝統的な建築を保存するときの耐震化の重要性も示唆している」と赤木は語る。

 価格高騰を見越してストックしていた高額な漆の多くも流出。2階から1階へと流れ出たが、これらをすべて回収。ろ過すれば使用できる見込みも立ったという。

左から田村一、赤木明登、攝津広紀

 攝津と交流のある輪島の職人も、被害を受けなかった者はひとりもいないそうだ。とくに個人職人の被害が深刻であり、家が全壊したことで制作が行えない状況になり、またそこに務めている職人も同様の状況となっている。高齢の職人などは支援があっても再建を断念する者が多く、そういった工房に務めていた若い職人の行き先が課題となっている。

 赤木の工房で働く職人6人も、古い民家を改築した家に住んでいたために家は倒壊。それぞれが実家に帰省していたため本人たちの被害は免れたものの、住居がなくなったため金沢に避難している。技術維持のために長く職人の手を休ませるわけにはいかず、赤木は自身の工房を2月に金沢に移設。職人たちが働く場を維持している。この職人たちも4月には能登に戻る予定で、赤木はその住居を確保するために動いている。また、さらに先を見据え、建築家・中村好文による職人たちが住める新たな家をつくる計画もあるという。

 このように被害の現状を語った赤木だが、同時に「地震と隆起を繰り返してきた能登半島と輪島塗の関係も無視できない」と言い添えた。輪島塗に使われる珪藻土は、海中の藻類が堆積した地層のもの。珪藻土には多くの空気が含まれているために熱を伝えにくく、輪島塗の堅牢さを支えてきた。「今回の地震は長い地球の歴史のなかに自分たちがいて、自然とのあいだで生きていることを改めて自覚させられるきっかけにもなった」と赤木は語った。

左から田村一、赤木明登、攝津広紀

震災の経験を工芸にいかに活かすか

 赤木は輪島塗の素晴らしさを「様々な職人が共働してつくる点にある」と述べる。しかしながら、一人ひとりの職人はみな零細であり、住居と仕事場を失ったにもかかわらず、支援のための声をあげずに廃業してしまうという。

 こうした状況を鑑みて、赤木は「小さな木地屋さん再生プロジェクト」を立ち上げた。このプロジェクトは輪島の現役最高齢の椀木地師(器の基礎となる白木の木材をつくりだす工程を担う職人)を支援するもので、倒壊しかけた職人の工房から、何年もかけて集められた材料を運び出して保存するとともに、建物を引き起こして屋根に防水処置を実施。耐震金具などで補強し、新たな基礎工事を実施して職人が再び活動できることを目指すという。これらは赤木がSNSを中心に支援を呼びかけた資金で賄われた。

 そもそも、伝統工芸の土台となる職人がおらず、基礎が崩れ落ちそうな状況は震災前から続いているそうだ。1974年秋田県生まれ、新政酒造株式会社代表取締役の佐藤も、酒造りに使う木桶をつくる道具の職人がいないと語った。こうした基礎を担う職人は賃金が低い傾向があり、後継者不足が上流工程よりもより顕著だという。

左から佐藤祐輔、石倉敏明

 1974年東京都生まれの芸術人類学者で秋田公立美術大学「アーツ & ルーツ専攻」准教授の石倉敏明は、こうした状況を鑑み、教育の現場において精神性を含めて伝統工芸と向き合うことの重要性を語った。「伝統工芸品が出来上がるプロセスは、すべての工程に連綿と続いてきた文化がある。まずそれを感覚としてとらえられるよう、大学教育においても力をいれるべきだ」。

 また、石倉は職人の仕事を「生々しい自然に触れ、人間と自然とのあいだを調停するような宗教的な仕事」だと表現。これに対して佐藤は次のように応答した。「発酵を通じてアルコールを醸造するという酒づくりは微生物という自然と付き合う仕事であり、予想できないことが山ほど生まれる。それを楽しむ精神性をいかに伝えていくのかが重要だ」。

 さらに石倉は「文化人類学者のレヴィ・ストロースがかつて輪島に来たのは、家族経営の可能性を探っていたからだ。職人たちの血縁ではない家族的な結びつきは重要な文化だ」とも語る。天災を機に人と人とのつながりの重要性を改めて意識すること。本クロストークの根幹にもつながる提言だ。

 能登の伝統工芸にも甚大な被害を及ぼした令和6年能登半島地震は、伝統工芸を支えてきた構造や人と人とのつながりとは何だったのかを改めて考える契機となり得る。そのことを強く意識させられるクロストークとなった。