内海昭子──静謐なる声の「光」景
光州に到着するや日本パビリオンのひとつ、内海昭子の展示会場となったホテル「Culture Hotel LAAM」へと向かった。扉を開けたとたん暗闇にしばし視界を遮られる。やがて吊り下げられた長短の金属棒(約100本の真鍮やステンレス製の棒)が認識できるかできないかくらいに微妙に回転し、時にそれらの金属棒が互いにぶつかり接触しながら音を奏でていることがわかる。床すれすれの太くて長い棒はいわば全体が醸し出す音律の通低音をなし、舞うように微かに揺れ動くそこかしこの棒は、風(空調)によって触れ合い、その時々のタイミングで音が音へと連なっていく。タイトルは《The sounds ringing here now will echo sometime, somewhere》。それは、一切の余計なものがそぎ落された音と視覚による五感の世界、抽象化された「光州」という場そのもの、とでもいうようだった。
内海はこうした表現に至るまでに光州の現地踏査はもちろん、日本軍「慰安婦」問題を展示するソウルの「戦争と女性の博物館」など植民地支配の痕跡をたどった。そのとき、被害者を支援する「水曜デモ」(*4)ドキュメントの賑やかな訴えに驚き、やがて朝鮮王朝時代に民衆が王に訴えた「直訴」という政治文化にヒントを得ていく。儒教思想のもと、民衆がドラや鉦(かね)を鳴らすことで王を引き留め、窮状や要求を直接訴えて訴状を申し入れた朝鮮時代特有の風習のことだ(*5)。「苦難」を生き抜くため「笑い(諧謔)と歌」で歴史を逆転させようとした朝鮮民衆の知恵とも言える。それは現代韓国の「デモの文化」に受け継がれ、そうした抵抗の表現がまさに光州で脈々と受け継がれていることに内海は思い至る。
そして、「事実が苦しいものである時に、それを乗り越えるものとして韓国の人にとって音が必要なのではないだろうか。そして音を奏でることによって何かを変えることができるという信念のようなものが連綿と続いてきた民衆の精神に刻まれているように思う」と語る(*6)。
内海が生み出した空間は、そうした名もなき民衆による生きるための鼓動を掬い取っているかのように、「音」が「光って」いる。沈黙を横切る微かな音(声の連鎖と言ってもよい)が、あの「世直し」を訴え無数の声を轟かせた「光州」が「いま、ここにある」ことを喚起させるのである。光州市民は銃ではなく、拳をあげ、あるいは詩や歌や演劇、版画等により、ありったけの「声」で表現し、民主化を訴え続けた。内海のインスタレーションに佇んでいると、そうした光景が闇から浮かび上がり、静謐さの底から声が光り出す。
つまり、聞こえるか聞こえないかの音、それが残るのだ。国家暴力の血が染み込んだ地から浮かび上がる死者の叫びは、いまや微かな響きとして頬をかすめ、音の韻律によって歴史に残る。金属棒が揺れる、いや流れ星だろうか、それは魂か、抵抗の火種なのか──沈黙が記憶へと変化していく瞬間だ。
内海は、「これはあの場所ではなく、私たちの問題」であり、「負の連鎖に抵抗する声の連鎖の方を信用したい」という。光州の歴史への応答が内海によって控えめに、しかし屹立して世界へと開示されていることを体感するのだ。