クールなコンセプトによるハイクオリティかつ大規模なインスタレーションを日本のコマーシャルギャラリーで見られる日がようやく来た……そんな身も蓋もない感慨を天王洲のANOMAYで玉山拓郎の個展を見た時に抱いてしまったと告白しておこう。わかりにくいたとえで恐縮だが、スイスはチューリヒにあるミグロス現代美術館(Migros Museum für Gegenwartskunst)を訪れる度に感じるのと同じくらいの、心地よい「おいてけぼり」感を、そこでは感じることができた。
言い換えれば、今の日本で見られるインスタレーションの多くが、心地よさやわかりやすさの創出に囚われてしまっているように思われるということである。たとえば、ビニル製のホースやプラスチック製のボックスや垂木などを使い、絶妙な配置をすることを狙うインスタレーションがある。これは、現代の作庭ともいえ、見ている分にはじつに心地よい。あるいは、凡庸な情景Aの徹底的な似姿A’をつくり、技巧への驚きを喚起するとともに、虚実の境界線を問い直すかのようなインスタレーションがある。これは、世界に対する認識の変更を迫るようでいて、実際にはAとA’の閉じた関係に意識をしばりつけてしまっている点で、どうしても自己完結的な閉鎖系から外に出ることができない(が、それはそれでわかりやすく心地よいので、人気を博すことになる)。
だが、それではやはりアートにはならないのだ。アートには生を支えている「エロス」を究明しようとする意志が必要だし、そして、そのエロスと不可分である死への欲動である「タナトス」と向き合う必要もある。もちろん、エロスとタナトスを考えることがアートの要諦だ、なんてこれまで何度も言及されてきたはずの考えをしたり顔で言ってしまうことが、なんともオールドファッションであることは理解している。21世紀のアートはもっと先に進むべきかもしれないし、アーティストもそう望んでいるかもしれない。けれども、少なくとも今の私は、いつ終わるともわからないコロナ禍の日々において、生と死を考えることが日常になりすぎていて、むしろそのリアリティが失われつつあることからくる反動(あるいは切実な欲求)として、エロスとタナトスを扱う作品を求めていたのであった。いや、実際には順序が逆で、コロナ禍において移動が憚られるなか、こっそりと玉山のインスタレーションを見に天王洲を訪れて、「ああ、今自分が求めていたのはこれだったんだ」と思ってしまったというわけだ。
部屋に入ったときに目を引くのは、上下に蛍光灯が据え付けられた、巨大といってよい骨組みである。入口側が高く掲げられているのだが、骨組み上側の蛍光灯は黃色、下側は緑色の色を放っている。つまりその骨組を界面として、上下で空間の色が違っている。世界(といってもこの展示空間だけの小さな世界)が、骨組みによって二分されていると感じられる。骨組みの傾斜は18度。この傾きを時計の秒針の動きに換算するならば、18÷360×60=3、すなわち3秒という時間の厚み、あるいは経過を、この骨組みは示している。「時間が物の傾きに依ってボリュームを持ち存在している」という作家のステートメントに従えば、そういうことになるだろう。
例えば、床に使われるフローリング材が壁に貼られていて、そこからフロアスタンドが飛び出している光景が示すのは、3秒のうちに世界がずれたということなのかもしれない。壁面に皿が二枚貼られていて、その下、つまり床面にスパゲッティが落ちているのも、3秒のうちに世界がずれたことを示すものなのか。よく見れば、骨組みの下のテーブルの上にぽつんと置かれたコップに入っている水も、18度の傾斜を持っている。
そんな「X±3秒の世界」に私はひとり身を置いている。しかし、眺め渡しているうちに気づく。この世界の中に物理的に入ることは許されたけれど、この世界と自分は意味的にはつながっていないことに。なぜそう思うか。少なくとも私は「斜め」にされていないからだ。そして、自分が身を置く(コンセプトにしたがって充足している)世界と自分とが意味として切れていることに気づく時、猛烈な孤独感に襲われる。死の淵へと近づく。
実際には、私と、私が身を置いている空間=インスタレーションのうち、どちらがエロスでどちらがタナトスかは判然としていない。それは視点によってかわる。壁からスパゲッティが落ちている様相に底知れぬ暴力性を感じ(世界が3秒間のうちにずれてしまうことは、なんとも暴力的だ)、そこにタナトスへと向かう力を感じ取ったとしよう。それに対して、その暴力=世界のずれに引きずりこまれることを免れている私は確かに生きている。エロスを感じることになる。そのように、玉山の作品の中であれこれ見て感じているうちに、エロスとタナトスは表裏一体であるだけでなく、すぐに反転してしまうようなものなのだと理解できる。
と書いているうちに気づくのは、このエロスとタナトスの二極の間で感情が振幅する鑑賞の様相は、フランシス・ベーコンの絵画の前に立つときのそれと酷似しているということだ。思えばベーコンもまた、紫やピンクやオレンジなどの色彩による絵画的な空間の中に、そこに歪んだ人物を、つまり時間を孕んだ存在を置くのであった。ちなみに玉山の作品を語るときにその色彩感覚から必ず言及されるであろう映画監督のダリオ・アルジェントが、ブリューゲル、エッシャー、ビアズレーなどの絵画を参照することは知られているが、その人物表現や色彩を見れば、アルジェントがベーコンを参照していたことは間違いのないところだろう。
話を玉山のインスタレーションに戻そう。アンチ現代美術の人からしたら、18度=3秒のコンセプトがわからなければ作品を理解できないじゃないか、それこそが悪しき現代美術の慣習だ、と批判したくなるかもしれない。それよりも心地よかったりSNSで共感を伝えられたりするインスタレーションの方が、開かれているという点では今日的であり、今後のアートはむしろそちらに向かうべきだ、と主張されるかもしれない。なるほど確かにそれも一理あるが、ここで言っておきたいのは、実際のところは3秒のコンセプトを知らずとも玉山の作品は楽しめるということだ。
私も、3秒のコンセプトをギャラリストに教わる前に展示を見て打ちのめされた口だった。スパゲッティが意味不明に落ちていることで、重力と同時に不穏な力が問題にされていることくらいはなんとかわかる。重力がテーマのひとつだと仮定すれば、壁からはえていて途中から床に向けて曲がっているライトスタンドは、想像もつかないような時間を経て物体が重力によって変形してしまった姿なのではないかと推測できる。そんな推測は物理的力学の観点からしても間違いかもしれないが、かまわない。解釈の権利と自由は、私=鑑賞者に与えられているのだから。そして、その想像もつかない時間が経つ前に、あるいはその過程において、きっと何人もの人がこの部屋を訪れたのだろうと想像すると、今ここにひとり立つ私の孤独が際立つ。私はひとり世界に取り残されたのか……死んでしまった世界に取り残された自分……いやまて、ひょっとして今私は、別の世界、床や壁の関係がずれてしまった世界にからめとられてしまっていて、元の世界から引き離されてしまったのではないか……とすれば「死んで」しまったのはむしろ私なのではないか……こうして書き出してみたところで、私の力量では安直なSFにもおよばない気持ちの変化しか伝えられないのは申しわけないところだが、ここでとにかく確認しておきたいのは、たとえ18度=3秒のコンセプトを知らなくとも、先と同じようなエロスとタナトスとの間の振幅に思考がからめとられていっているということである。
ところで、玉山のインスタレーションは、光も作品の一部として、あるいは作品を成立させるベースとして(かつまた操作しうる要素として)組み込まれていることを大きな特徴としている。この、光が、操作可能な作品の構成要素であるというのは、じつは極めて絵画的である。そして、目の前に提示された世界が、視覚的にはスタティックであるが、その構成原理に時間の問題がはらまれているがゆえに、じつは極めて不安定であるという絵画がかつてあったことを、私たちはよく知っている。そう、キュビスムである。そしてここで思いだされるのは今回の展覧会のタイトルで、「Anything will slip off / If cut diagonally」には、空間(diagonally)と時間(will)が含まれているし、slip offはセザンヌ的、cutはキュビスム的である。
キュビスムを持ち出すなど、話がいささか飛躍しすぎではないかと思われるかもしれないが、玉山が、20世紀以降の展開めまぐるしい美術(史)の果てに自分がいることを常に自覚しているアーティストだということを忘れないでおこう。あるインタビューで彼は、移住を考えているロサンゼルスという場所について次のように述べている。「西洋の美術の終着点でもあるし、地理的に見たら西側は環太平洋でアジアがあるという場所で、その西洋の美術史にようやく自分も関与する方法としてロスに移住するというのがすごくまっとうなやり方だと感じています」(*)。
20世紀初頭に、ポアンカレに代表される純粋数学が提出した空間と時間の新しい考え方がキュビスムという革命的な、しかし徹底的にアナログな絵画を生み出したように(あるいはそのような反応を提出することを、アーティストたちが自分たちの責任として引き受けたように)、液晶の画面の向こうで様々な数学理論が音もなく稼働している今を生きるアーティストもまた、アナログな手法でもって反応と提案をする責任がある、そう玉山は考えているのではないか。少なくとも私にとって、今回の展覧会=作品は、21世紀におけるキュビスムの展開可能性というテーマについて考えたくなるほどの強度を持っていた。