都市のなかに死体を
ある瞬間に健康を著しく損なったり、死んでしまう可能性。それを所与の条件として生きていくことが求められるコロナ禍の社会において必要なアイデアが、思想家のジャン・ボードリヤールによる『象徴交換と死』には詰まっている。ここで彼は「交換」を蝶番に、共同体とその権力が、死者をどのように扱うのかについての思考を深めた。こうした点について、美術史家で批評家の林道郎は『死者とともに生きる―ボードリヤール「象徴交換と死」を読み直す』(現代書館)において、東日本大震災直後の日本で再考した。しかしそれはあまり顧みられていないように思える。
幅広いモチーフが登場する林の研究の中心をなすのは「アナグラム」という概念だ。ボードリヤールにとってのアナグラムとはまず詩的実践であり、それはひとつの詩のなかに英雄や王、そして神の名といった「テーマ語」を音節によって切り分けて、離散的に配置する手法を意味する(*1)。だがボードリヤールにとって重要なのはアナグラムの法則の検証や定義、そして詩のなかに隠されたテーマの語の解読ではなく、
しかし『象徴交換と死』の大部分を占めるのは文学研究ではなく、高度な消費社会における記号交換の法則についての分析だ。そして消費社会に対する象徴交換のひとつのモデルとして、アナグラムは登場するのである。例えば「未開社会」において、死者が共同体から疎外されることなく、そのメンバーによる人肉嗜食=カニバリズムによって身体が解体されながらも共同体へと再度組み込まれること。こうした供養のプロセスこそが死の象徴交換であり、そしてアナグラムである(*3)——こうした要約に基づいて林は、戦後日本や現代社会を「日本」と「アメリカ」を同時にテーマ語としたアナグラムによって構成されたものとして解釈する。それはアナグラム概念の使用法のひとつではあるが、ここでは異なる文脈へと接続して考えてみたい。
それは第一に、かつてのオリンピックに競技種目として実際に存在した種目名をタイトルに冠した「芸術競技」展である。しかし展示会場である「FL田SH」の中に置かれた作品以上に本展を特徴付けるのは、展覧会最終日の7月24日(2020年に開催されるはずだった東京オリンピックの開会式の予定日と同日)に行われたイベント「オープニングセレモニー」だ。
セレモニーは、多くの鑑賞者を引き連れて新国立競技場の周囲を移動しながら3名の展示作家のパフォーマンスが次々と行われることで展開した。まず中島晴矢は口にマスクを着けた状態でシャトルランを行い、競技場の前を往復した。これに続いた秋山佑太は3Dプリンターで出力した白い塊を街路樹に貼り付けた後で、競技場の前にあぐらをかいて座り、自らの口内に砂利、砂、セメント、水を入れる。そしてえずきながらも、コンクリートを成型した(最初の白い塊は、事前に口内でコンクリートを成型し、3Dスキャンして出力したものである)。そして秋山のパフォーマンスが終わろうとすると……遠方からヒラメや鯛などを抱えたトモトシが現れ、まるで生きて泳いでいるかのように魚をクネクネと動かしながら路上をゆっくりと歩き回り、そして最後には新国立競技場の周囲を囲うフェンスの中へとそれらを投げ込んでいった。
一連のパフォーマンスを見ながら頭をよぎったのは、新国立競技場の建設にあたって4名の作業員が亡くなったというニュースである(*4)。僕を含めた多くの人々は、この死について「4」という数字でしか想像することができないだろう。それぞれの作業員の生活と身体はマスメディアを介して消去され、ヴァーチャルな数字へと死が変質する。ナショナル・アイデンティティを強化するために死者が英霊と化すこともあるが、逃げ場なき資本主義が全面化した今日に至っては、オリンピックという国家が強調される祝祭においてすら死者の居場所はないのだ(*5)。だからこそ3名のアーティストによるそれぞれにインディペンデントな運動(中島)、労働(秋山)、供犠(トモトシ)は、作業員の死を物質的に知覚させる契機として僕の目に映った。
しかるに今日の社会において、死はたんに治療不可能な病へと格下げされた。だが芸術には、こうした分類を乱す力があるのも事実である。そこで次にふれたいのは、同時期に開催された竹内公太の個展「Body is not Antibody」である。同展にはこうした分類への挑戦としてのアナグラム、つまり死の象徴交換の現在的な形態へのヒントを見出すことができる。
2019年の夏から20年の春にかけて福島県の帰還困難区域で警備員をしていたという竹内は、その労働で使用した赤く光る誘導棒を振って光跡写真(長時間露光によって、光の軌跡を記録した写真)を撮影した。そしてこれらの写真から、発光する誘導棒の動きを抽出することで「Evidens」という名前のオープンタイプフォント(コンピュータ上での文書制作やDTPの際に使用する文字の形のデータ)を制作したのである。
「ALIENS」という文字列が印刷された6枚のコピー用紙と、その前方に置かれた白いベンチによって構成された作品《文書2: エイリアン》(2020)。この文字列を背後にしてベンチに座ると、壁面を覆う大量のコピー用紙によって構成された作品《文書1:王冠と身体》(2020)が眼前に広がる。
本作はフォント「Evidens」を、ベンチから見ても文字とわからないような小さなサイズで敷き詰めて印刷したものだ。竹内は、無数の文字を組み合わせることで、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』(1651)の扉絵から王冠と身体のみを抽出して描いた。だが本作における「Evidens」の使用法は、フォント本来の利用目的に即していないだけでなく、もはやフォントの造形的な特異性もほとんど活用されず、たんに明暗を表現するためのピクセルとして扱われるのみだ。しかしそのマトリクスは逆説的に、英単語としての成立した「ALIENS」という文字列を際立たせる。また、リヴァイアサンの身体とは、その参照元の時点で、王を仰ぐ国民の身体によって構成されたものだ。竹内は、この国民を、警備員が振る誘導棒の軌跡に置き換えたのである。
本展の鑑賞プロセスにおいて、オープンタイプフォントという機能的なパッケージセットは、国民=国家とエイリアンのあいだでアナグラムとしての詩的解体と再構成を終わりなく繰り返す。ここで意味論的解釈以上に重要に思えるのは、警備員の身体が固定された役割を離れて、フォントになり、そしてリヴァイアサンになり、そしてまた元に戻るという終わることなきプロセスのほうである。こうした運動のなかに死者を位置付ける「出来事」として、都市のなかでインディペンデントな芸術が機能することができたなら……。それは国家のなかに英霊以外の死者の居場所を考えるための準備となるかもしれない。
*1――林道郎『死者とともに生きる―ボードリヤール「象徴交換と死」を読み直す』(現代書館、2015)、58頁
*2――前掲書、66頁
*3――前掲書、61頁
*4――「五輪建設現場『作業員4人死亡は異常』労組国際組織」NHK政治マガジン(2019年10月3日掲載)
*5――ボードリヤールは以下のように述べている。「これらの[新設]都市では、物理的空間の面でも心理的空間の面でも、死者たちのためにとっておかれる余地はなくなった。狂人、犯罪者、異常者たちですら新設都市、すなわち近代社会の合理性のなかに受け入れ構造を見出すことができるのに、死という機能だけが計画にも入れられず、位置付けもされない」。(ジャン・ボードリヤール「象徴交換と死」今村仁司訳、ちくま学芸文庫、1992、305頁)