布施琳太郎が問うコロナ禍と「つながり」。あなたがあなたと出会うために──不安の抗体としての、秘密の共有

新型コロナの感染拡大で対人の距離が問い直されるなか、4月30日より、「1人ずつしかアクセスできないウェブページ」を舞台とする展覧会「隔離式濃厚接触室」を開催しているアーティストの布施琳太郎。「つながり」過剰な現代における、芸術にとっての「孤独」の意味をめぐるその視点は、2019年の第16回芸術評論募集で佳作を受賞した布施の論考「新しい孤独」の主題でもあった。布施はいま何を考え、「隔離式濃厚接触室」で何を目指したのか? 特別寄稿してもらった。

文=布施琳太郎 編集協力=杉原環樹

「隔離式濃厚接触室」の「展示風景」 撮影=竹久直樹
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状況としての不安

どうして来ないの?こっちに来ればいいのに
──Serial experiments lain(*1)

分裂した人間存在は、誘惑されてはじめて総合的実存を完全な姿で回復できる。
──ジョルジュ・バタイユ『魔法使いの弟子』(*2)

 ある状況において、これまでにない仕方でつながりを断った瞬間からはじまるもの。それが芸術だ。それは既存のコミュニティを強化したり、既に安定したエコノミーに依存したものであるというよりも、誰かと秘密を共有する瞬間の息遣いにも似た、世界からの乖離である。

 つながりを断つこと。これに着目するのは、あくまで先人たちの営みの連鎖から導き出された結論である。ここで連鎖という言葉を選んだのは「鎖」というものが、それぞれにバラバラなドーナツ状の形をしていながら、しかしその金属の中空を相互に貫き合うことで、ひとつの線となっているからに他ならない。こうした連続と不連続の共存によって成立するものが人類の歴史だ。そして芸術はまさに歴史的な連鎖、つまり過去と未来の連続と不連続の両義性を引き受けるものである。

 これまでとは異なるが、しかしどこかでつながっているような......こうした両義性は、歴史が、政治や宗教、戦争、テクノロジー、文化、災害などが複雑に交差した複合的なものであるのと同様、芸術にとっても複合的である。つまり、芸術はたんに過去と両義的な関係を築くだけではない。それは同時代の都市やテクノロジー、災禍などに対しても両義的な関係を築く。つまりこれまでにない仕方でつながりを断つことで、他との連続を別の仕方で獲得するとき、そこにあったもの。それが芸術である。

 では現在の社会において、つながりはどうなっているのだろう。つまり、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)によるCOVID-19の感染拡大、コロナ禍と呼ばれる現在だ。この数ヶ月を生きた私たちは、それぞれのつながりが断たれているのか、あるいは過剰なつながりに巻き込まれているのかさえ判別できない状況にいる。

 こうした状況を不安と呼ぶのだろう。それは恐怖とは異なる。不安の対象は常に茫漠としており、そこに原因があるとも限らない。恐怖が死に対する闘争の現れであるなら、不安は死を隠避する怯えだ。主体と客体が混じり合い、対象としての世界が失われていく──僕は不安を感情ではなく、そんなひとつの状況としてとらえた。そして状況としての不安のなかでは、人と人が出会い、他者の存在を認め、新たな親密圏を構築することが困難となる。だが私たちの不安の、すべての原因がウイルスそれ自体に由来するとは到底思えない。

 むしろこの数ヶ月に対して僕は、すでに進行していた社会の変化が確かなかたちを伴って顔を出したに過ぎないと考えている。COVID-19と共に新しい時代が到来するという考えを、僕は肯定しない。むしろ10年、20年もの間、はぐらかしてきた問題が噴出しているに過ぎないとしか思えないのだ。つまり、コミュニケーションの商品化、フェイクニュース、ヘイトスピーチ、著作物の無闇な無料化など......いまだに人類は情報化した社会と経済のなかで生きていくための有効な手段を見出せていない。もうごまかしは効かないのだ。そのことが露出し尽くしている。確かに限界を迎えたという意味では重要なパラダイムシフトだ。しかし富の寡占の進行、影響力を獲得し続ける反動的な思想、都市の過密化、そして異なる文化、地域の人々に対する差別は決してCOVID-19に由来するものではない。

 その根本には、現代の社会におけるつながりの混濁がある。高度に情報化した社会、その不安のなかで生きるための有効な手立てを持たない限り、現在の困難は何度でも人類に対して襲いかかるだろう。これがCOVID-19の感染拡大を含めた、現在の状況に対する僕の基本的な見方である。

 つながりの混濁は、歴史、ひいては芸術の障壁となるだろう。しかし僕は絶望してはいない。むしろ現状に対する有効な手立てとして、芸術の可能性を信じている。それは具体的には詩と展覧会に対してだ。これらに共通する特徴は「秘密の共有」である。それは、既に存在する分断や癒着を超えた共同性を私たちにもたらすだろう。後半部では、僕自身の実践を通して未来へのブループリントを示したい。

「原料状態の孤独を、この(その)親指の腐敗へと特殊化する」(BLOCK HOUSE、2019)の展示風景

秘密の共有

 COVID-19の感染が拡大するなか、僕は「隔離式濃厚接触室」という展覧会を企画した。これは「ひとりずつしかアクセスできないウェブページ」を会場とした展覧会で、アーティストである布施と、詩人の水沢なおの二人展である。本展は4月9日よりプレスリリースをはじめとした告知を開始し、同月30日よりオープンした。現在も鑑賞できるので、是非アクセスしてみてほしい。

 しかし、じつは、本展はCOVID-19による疫学的、あるいは情報的パンデミックに対して発案したものではなかった。「ひとりずつしかアクセスできないウェブページ」というアイデアは、昨年の秋口に、つまり「あいちトリエンナーレ2019」に対する文化庁の補助金不交付発表に対してアーティストとして行うべきことを考えるなかで発案したものである。その不交付の意図を知る方法はないし、政府や行政に対してひとつの主体を見出して戦うのも間違っていると思う。そこには様々な倫理と利害が交錯していて当たり前であって、一枚岩であるはずもない。

 そうしたなかで重要なことに思えたのは、集団化した労働に支えられた社会と、芸術の関係を複数化することだった。アーティストが資本主義のなかで日銭を稼ぐことが避けられないのだとしても、資本主義のサイクルから甚大な影響を受けずに作品を発表し、体験させていくための形式をそれぞれが所有する必要を強く感じたのだ。この問題意識がCOVID-19によるパンデミックのなかでより緊急性を要するものとして捉え直され、「隔離式濃厚接触室」は企画された。

「隔離式濃厚接触室」の「展示風景」 撮影=竹久直樹

 準備のなかで脳裏をかすめたのは「秘密の共有」だった。

 「秘密の共有」というキーワードは、当時読み込んでいたジョルジュ・バタイユの活動に刺激されたものであったように思う。彼は1937年に「アセファル(無頭人)」という秘密結社を組織し、同名の雑誌を発行した。そこには岡本太郎やロジェ・カイヨワなどが参加し、実際に人間の生贄までもが行われていたと嘯かれている。だが重要なことは、そこでなんらかの秘密が共有されていたことだ(この活動の成果が何であるのかは分からないが、何かしらの達成を公に迎えることなくアセファルは空中分解した)。

 秘密が共有されるとき、既存のコミュニティやシステムから乖離した共同性が生じる。国民国家、あるいは資本主義のなかで、そのシステムを壊すことなく、別のシステムを組み立てる可能性......それはバタイユが『魔法使いの弟子』で述べた「恋人たち」の時間においても生じるものだろう。恋人同士が見つめ合い、そして沈黙のなかで固有の時間を過ごすとき、そこにはあらゆる社会的な関係を捨象した熱が発生する。これと同一の熱は、まったく異なる形式においても生じさせることができるはずだ。

 これらの関心に基づいて行動することを考え、発案されたのが本展の基本的なアイデアである。

 「ひとりずつしかアクセスできないウェブページ」へのアクセスを試みるのは、ひとりの人間だけではない。この世界のどこかにいる複数の匿名の誰かも、同時にアクセスを試みる。誰かが鑑賞しているかぎり、「私」は展覧会を鑑賞することができないのだ。その待ち時間と鑑賞時間の往復によって複数の人々が、既成のコミュニティや労働関係を打ち捨てたり、壊したりすることなく、「私たち」としての別の共同性を獲得する。

「隔離式濃厚接触室」の「展示風景」 撮影=竹久直樹

 こうした考えは、本展を鑑賞した方々の感想によって得ることができた面が大きい。つまり展覧会へとアクセスすることを「入室」「入る」と呼び、展示風景を共有することを「ネタバレ」と呼称する人が多くいたこと(*3)。それは僕の考える「秘密の共有」の受容として適当なコメントだった。

 僕は本展の開催に併せて発表したノートで以下のように述べた。「展覧会とは体験である。それは集団化した労働に基礎付けられた都市と、対立する孤独の時間だ」、と(*4)。しかし僕が「体験」と呼んでいたものが、鑑賞者によって「バラされるべきでないネタ」へと呼び替えられる。それは展覧会を目撃した人々だけが共有可能な秘密だ。そして僕が設計したはずの孤独の時間、展覧会の体験は、複数の鑑賞体験によってそれぞれの鑑賞者が所有する秘密へと移行するのである。

 それは、人々が集まっているようで、集まっていないような......そして中心も頂点もない「無頭人(アセファル)」としての共同体である。固有の作品体験を展覧会が媒介することで、それぞれの社会的諸関係を維持したまま、人々が孤独のなかへと集合する。

状況の詩的変質

 最後に「隔離式濃厚接触室」における秘密の理由について、僕の視点から述べたい。

 その秘密は詩の作用である。詩とは言葉だ。そして言葉とはシステムである。つまり定義と用法のネットワークによって成立している。だが詩はシステムではない。このパラドックスをドライブしたところに詩はある。

 本展に展示された水沢なおの『シー』という詩。そのタイトルは沈黙を誘発するための、唇に人差し指を当てて歯の間から息を吹く行為を想起させるとともに、「詩(シ)」それ自体、そして「she」や「sea」「see」といった英単語を読者の脳裏に並列的に意識させる。ひとつの言葉から羅列可能なこれらすべての意味が、この詩全体におけるライトモチーフとなっている。こうした言葉の利用は、言葉がシステムであることから抜け出て、しかし読む行為によって再システム化されることで、緊張感を伴って私たちの体験をかたちづくる。

 そして、その本文において断片的に繰り返され、かき混ぜられていく生殖に関するイメージ、様々な過去と現在、こことそこ。その攪拌のプロセスによって私たちは、システムから遊離してそれぞれの孤独のなかで言葉を組み立て、各々の秘密をアレンジする。誰もが誰かの個人的な記憶へと、言葉をレンダリングする。状況としての不安が、つながりの混濁が、スマートフォンの上で詩へと変質していく(本来はここで水沢なおの詩論を展開したいが、紙幅の都合で省略する)。

「隔離式濃厚接触室」の「展示風景」 撮影=竹久直樹

 この詩的変質は、本展における僕の作品においても等しく生じる。本作は、ブラウザを介して鑑賞者の情報をサーバーが取得することで、その現在位置に基づいた映像を生成するものだ。具体的には鑑賞者の緯経度の情報を元に、Googleの提供するAPI(プログラムが外部とやり取りする窓口のようなもの)を用いてストリートビューを取り込むことでサイトに表示している。さらに、理想的な映像にするため、ふたつのストリートビューを画面上の同一座標に表示しながら、片方の明度を上げつつガウスブラー(ぼかし加工)をかけたうえでオーバーレイ(複数の画像を合成する方法のひとつ)している。これはAdobe Photoshopにおけるレイヤー構造をウェブブラウザ上でシミュレーションすることを意図した処理である。

 そしてこの映像を含めたページ全体が、それぞれの鑑賞者のためにアレンジされたものだ。

 まず、ウェブサイトへアクセスするためのデバイスのディスプレイは、iPhoneやiPadをはじめとしたスマートフォンやタブレット端末の流通によって、そのサイズや縦横比、解像度が著しく多様化している。その結果、それぞれのデバイス毎にまったく異なるレイアウトで作品を組み立てる必要があった──近年標準的なレスポンシブウェブデザイン(*5)というものだ。そしてそれぞれのデバイスのために用意されたレイアウトに基づいて、ブラウザ上で映像と詩がレンダリングされる。

 だが、僕の書いたプログラムはプロセッサ(処理装置)への負荷が大きいため、鑑賞者が用いるデバイスによっては映像がボケ過ぎたり、ふたつのストリートビューがズレたり、位置情報が取得できなかったりもする。しかしそれによって何かが失われるわけではない。むしろ絵画や映画のように自律したものではなく、いまあなたの手のひらの上でリアルタイムでレンダリングされているからこそ、こうした歪みが生じるのだ。

 十分にシステム化された言語であるプログラムを組み立てた結果として、それぞれの鑑賞条件に応じて変化する映像と展覧会。「ひとりしかアクセスできないウェブページ」で、実際の詩と並列して鑑賞されるそれは、ひとつの詩的変質である。

 僕は状況の詩的変質こそが、秘密の共有の契機になると考えている。秘密の共有とは、既に存在する枠組みのなかに、その外部を実装である試みである。それは既存のコミュニティや資本主義のシステムと対立することなく、その内的な余白として機能する。これは静かなる革命だ──限定的な時間において、当たり前の価値体系が一時的に組み替えられるという意味で。

 そして、状況の詩的変質による秘密の共有は、COVID-19の感染拡大を含めた現在の社会において蔓延する不安の抗体となるかもしれない。

 芸術に社会的な機能があるのなら......集団化した労働に支えられた社会から離れながら、つながりの混濁に溺れることなく、そこに再び戻ってくることができる時間であると僕は考える。情報化した社会のなかで失われた孤独を回復する共同体の成立、そして秘密の共有。これを実現することは、経済制裁やウイルスによる展示芸術の不自由に抗する形式を発明することを同時に意味するだろう。そのためには新鮮な形式と共に、魅惑的な内容物、つまり作品が求められる。形式と内容の闘争に鑑賞者や制作者が巻き込まれるとき、状況の詩的変質がはじまって新しい孤独が生じるのだ。そして単なる言葉や事物が、誰かの秘密を産み出すような地点にまで至るとき、そこにあったもの。それを僕は芸術と呼びたい。

 僕の実行した展覧会が、どこまで理想を実現できているのかはまだわからない。だが、まず必要なことは社会のなかに秘密を埋め込むことだ。少しでも多くの秘密が花開く可能性を担保するために「芸術」が機能していく未来を僕は期待したい。

「隔離式濃厚接触室」の「展示風景」 撮影=竹久直樹

*1──TVアニメ『Serial experiments lain』(1999)のセリフ。以下の書籍を参考にした。小中千昭『scenario experiments lain/シナリオエクスペリメンツ レイン[新装版] 』復刊ドットコム(2010)
*2── ジョルジュ・バタイユ著、酒井健訳『魔法使いの弟子』景文館書店(2015)
*3──展示内容に関する投稿を避ける傾向があまりに強く、SNS上での反応が芳しくないと判断し、僕の方から展示内容を共有するように誘導したため、現状はそうした傾向は見られない。具体的には展示風景のスクリーンショットを公開することを勧めるツイートを行ったうえで、当該のツイートを消去した(2020年5月4日夕方ごろ)。
*4── 布施琳太郎「感染隔離の時代の芸術のためのノート」(2020)
*5──ここではCSS(カスタムスタイルシート)のメディアクエリを用いて表示ディスプレイの解像度や比率を取得して、表示するコードを分ける技術を指す。2012年はW3C勧告(いわゆる標準規格化)した。

参考文献:
石川学『ジョルジュ・バタイユ: 行動の論理と文学』東京大学出版会(2018)
ジョルジュ・バタイユ著、兼子正勝、鈴木創士、中沢信一訳『無頭人(アセファル)』 現代思潮社 (1999)