ex-japan
existという動詞は、ex-sistereに由来し、sistereは静止している、立っているという意味である。つまり「存在する」とは固定された静止状態から「外へ(ex-)」出ること、動くことである。Xが存在するとき、Xは動いている。動いているから定まらず、存在と非在のあいだで振動している。つまり「いま・ここ」で「X」を措定することはありえず、したがって把握もできない。世界に存在するものを「ジャストミート」(和牛ならぬ和製英語)できず、Xを認識したときには、つねにすでにそれは動いておりずれている。存在の起源にはこのズレ(差延)だけがあって、決定的瞬間は不在である、と。泉太郎は差延の作家であり、それを哲学的概念というよりは生の実感として表現してきた。
Xをそれ自体としてビシッと把握できないならば、それが動いてずれる範囲、つまりそのフレームによって認識することになる。これは本質的に政治的な認識である。Xは、なんの必然性もない権力の力学に従って存在しているわけだ。「生の実感」は政治的なものであるから、泉太郎は、Xを存在せしめているフレームに注目する。Xが人間であれば、それは法律やルールであり、アートを含む様々な制度であり、慣習や伝統である。あるいはフレームは物理的なもの、すなわち家具や衣服であり、家やビルであり、都市の構造でもあるだろう。
ティンゲリー美術館の前庭で、木陰のアーティスト・トークに登場した作家は、映画『E.T.』の(システィーナ礼拝堂天井画のアダムと神のふれ合おうとする指に倣った)有名なシーンのTシャツを着ていた。そう、「ex」は「extra-terrestrial」の「ex」でもあり、だからXはエイリアンや人間以外の存在でもある。例えば、動物や病原菌やウィルス、人種差別主義者にとっての有色人種(*1)や外国人移民、ナチスにとってのユダヤ人など。「奴ら」にとっての世界のフレームは、「人間」にとってのフレームと異なっている。違う世界を生きる存在同士が、直接理解し合うことは、定義上ありえない。両者の共生は、なんらかのメディアが(文字通り)「あいだ」に挟まることによってしか生じない。メディアは、コミュニケーションを可能とするだろうが、フレームの違う者同士のあいだでコミュニケーションはディスコミュニケーションと区別されない。それはあいだに挟まった邪魔な障害物としても機能するだろう。「人間」と「奴ら」はいかにして共生できるのか、できないのか。
泉太郎の名前をまず国内で広く知らしめたのは、水戸芸術館の「夏への扉 マイクロポップの時代」展(松井みどり企画、2007)であった。「マイクロポップ」は基本的に「日本」に縛られる概念ではないが、それでもほとんどの作品において「失われた10年」という日本特有の文脈は明らかであった。国外から見ると、多くの作家たちが共有した「子供」の「工作」のようなスタイルとマイノリティ性は、日本人作家の固有性として見えただろう(*2)。それから13年、冒頭に挙げたような問題意識が普通に理解されるようになり、泉太郎のex-japan(=日本から出た、元日本の)なキャリアがスタートしている。すなわち、かつてのオン・カワラでもなく、村上隆でもない、普遍でも特殊でもない、ごく普通の──アーティストのキャリアが。とりわけパレ・ド・トーキョー(パリ)での個展「Pan」(2017)以降、内外で重要な個展が相次いでいる。それは「The West and the Rest」 (スチュアート・ホール)の二元論を、その最後の砦とも言えるアートワールドが、部分的にではあれ、ようやく過去のものとしつつある小さな兆候である。
個展の大部分を占める2020年の新作は、ユビキタスなネットワーク社会における「クラウド=雲」をテーマとした8種類のインスタレーションで構成され、それに3点の旧作が加えられていた。どれも人間と動物(病原菌)、存在と不在、異なるフレーム間(メディア間)の交通という作家の基本的なコンセプトを組み合わせた展開形として理解できる。最大のインスタレーション《雲(枕/高床式倉庫)》は、コロナ禍で強制休業中の世界各地の劇場関係者に依頼して、無人の劇場に10分間座りそのあいだの音を録音してもらったもの。ジョン・ケージの《4分33秒》が、通常は劇場で不在(演奏を邪魔しないミニマムな存在)を演じる観客の沈黙のほうを存在へもたらしたとするなら、泉はそれを逆転させ一捻りして、事実としての観客の不在によって、劇場空間自体の音を存在させるとともに、それが録音であることによって、その音についても現前と不在を重ね合わせる。各劇場の席番号とともに各地の無人空間の音が再生されて、ホワイトノイズが個展会場を満たしていた。
《雲(王様)》は、あるいは地球の支配者になっていたかもしれない最古の哺乳類「アデロ・バシレウス(=不確実な王様)」がE.T.のように地球に降り立ったら、美術館をはじめとする人間のフレームはどのように見えるか、という思考実験である。《雲(青)》は青い画面に文字が流れていくだけの地味な作品だが、コレラ菌に対する日本の現行法の適用可能性についての討論である。勝利者が一方的にコレラ菌を裁けるのかというその中身は、東京裁判を問うことに等しいだろう。《雲(世界の目)》は「現前と不在」「生と死」の重合を迷子猫のポスターで表現したもの。1枚だけ「見つかりました」というポスターが加えられることによって、それ以外のポスターは「どこかで生きているはず」というポスターの願いを空しく見せる、など。
とはいえ、観客にもっともアピールしていたのは、少し前のシリーズ「くすぐられる夢を見た気がする」(2016〜17)であった。スポーツ雑誌を賑わせるアスリートの決定的瞬間の写真は、それ自体、なんともシュールな画像である。人はありえない姿勢で宙に浮き、ボールは止まっている。時間と重力から解放された無意識の姿は、すでに見慣れた視覚文化の一部とはいえ、撮影されたシューターたちの、無防備に撃ち抜かれた姿は、本質的に滑稽である。この滑稽さは、もともとのプレイの求心性(ボールやゴールを目指す)が写真の焦点に乗っ取られて、シュールな姿勢の理由が消えてしまうことにも由来するだろう。「くすぐられる夢〜」は、この無意識の笑いを回収する装置である。作家は重力下で、時間の流れのなかで、この無意識の姿勢を意識的に再現するために、家具やワゴンなど人と物を支える道具を解体し再構築した。そこへ、欧米アスリートとはかけ離れた東洋人が、実際にその装置に身を委ねて欧米アスリートの姿勢でじっとしている動画が添えられる。装置はなかなかよくできていて、図らずもティンゲリーへのオマージュになっていた。
もともとの展覧会(かなりの3密企画だったとか)はアート・バーゼルに合わせて6月に予定されていたものの、コロナ禍で企画を一新し、アート・バーゼルとともに9月に延期された。が、結局アート・バーゼルは中止になったので、かなり残念なことに、作家のさらなるお披露目の効果は減少してしまった。しかし、もともとスイスのアートワールドは小規模ながら深く長く、がお家芸である。凝ったカタログが、作家をさらにグローバルな次のステージへと連れていくだろう。
*1──例えば戦争末期の焼夷弾による日本空爆を、アメリカのメディアは「動かないアヒル撃ち」と形容していた。ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本(完全版)』(伊藤延司訳、角川ソフィア文庫、2015)、第3章末尾。
*2──Séverine Fromaigeat ”Taro Izumi Endlosschleifen(泉太郎、無限のリボン)” 、「ex」展図録、257〜262頁。ちなみに図録内テキストとしては、Keren Goldberg ”Zeit, Wandelund(Post-)Konzept-zur Zei tgenossenschaft von Taro Izumi(時間、変容そして[ポスト]コンセプト 泉太郎の同時代性について)”が、日本人作家に対する「ex-japan」な新しい受容を示していて秀逸。