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2020.11.8

抜け殻となった物たちに見る戦後日本の姿。清水穣評 桑原正彦「heavenly peach」展

1990年代後半から一貫して人間の欲望による環境の変化に着目し、動物やおもちゃ、風景、少女などをモチーフとする絵画作品を制作してきた桑原正彦。小山登美夫ギャラリーでは1997年以来12回目となる個展「heavenly peach」を、清水穣がレビューする。

文=清水穣

展示風景より、「石油化学の夢」展(1995)の出品作
Photo by Kenji Takahashi (C) Masahiko Kuwahara Courtesy of Tomio Koyama Gallery
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アレゴリーとしての戦後日本

 明るい終末感の漂う個展であった。淡い色彩で整頓された画面には、「遺品」「果て」「不通」など、孤独死やその後の特殊清掃を思わせるタイトルが添えられている。おなじみの「カワイイ」「幸せ」なモチーフたちの輪郭は緩く解けて、断片化したり合体したりしながら、地平線の見える遠い風景のなかに影を落としている。イヴ・タンギーを連想するかもしれない。が、奇妙なオブジェたちをくっきりと照らし出すようなシュールな光はない。プチブルの夢見る「幸せ」の象徴としてのシャンデリアを、ゲルハルト・リヒターは「heavenly cheap」なものとしてフォトペインティングに仕立てた。が、桑原正彦にそういう意図は見えない。

 サイドルームでは25年前の個展「石油化学の夢」からいくつかの作品が、並んでいた。昭和のおもちゃは、石油でできたビニール製であった。記号の意味(可愛くてキレイ)と実体(環境に悪いビニール)のあいだに齟齬のある、いわば裏切りの記号たちに画家は詰め寄り、一つひとつを見据えて描いていた。2020年現在、画家はなんと遠い世界へ来たことだろう。昭和のおもちゃたちは、消費され捨てられて意味を失った。裏切りはもはや断罪されない。反対に、空っぽになって壊れた記号の破片を、桑原は拾い集め、救済するのである。
 「象徴においては、没落の変容とともに、自然の変容して神々しくなった 顔貌 かんばせ が、救済の光のなかに一瞬みずからを啓示するのに対して、アレゴリーにおいては、歴史の死相が硬直した原風景として、見る者の目の前に広がっているのである(*1)」。

 例えば、止めようもなく崩落していく黄昏の世界の最後に、悲劇の主人公が立ち上がり、その崩壊と終末を己の運命として受け入れて死んでいくとき、その没落は死を克服した人間の尊厳によって変容し、運命愛の象徴となって輝き、その死は、永遠の自然の営みのなかへ回収されることで救済されて観客はカタルシスを覚える……というのとは違って、桑原正彦の世界では、戦後日本という時代の死相が、硬直した原風景として、観客の目の前に広がっているのである。
 「そもそもの初めから付きまとっている、すべての時宜を得ないこと、痛ましいこと、失敗したことに潜む歴史は[…] 髑髏 どくろ の相貌をもってその姿を現す」。

果て 2018 キャンバスにアクリル 193.9×97.1cm
Photo by Kenji Takahashi (C) Masahiko Kuwahara Courtesy of Tomio Koyama Gallery

 考えてみれば、日本の戦後史は、どこからたどってみても、時宜を得ない政治の失敗や国民の無責任のせいで、戦争や占領、天災に事故に環境汚染に疫病など痛ましいことの連続であって、それには髑髏の相貌がふさわしい。
 「そしてこのような髑髏には、たとえ表現の一切の〈象徴に特有な〉自由が、形姿の一切の古典的調和が、一切の人間的なものがまったく欠けていようとも、人間存在そのものの自然(本性)のみならず、ひとつの個的存在の伝記的な歴史性が、その最も深く自然の手に堕ちた姿のなかに、意味深長に謎の問いとして現れている」。

 イメージが何かの本質を宿してそれと調和し、人間に向けて神々しいオーラを発する状態が象徴であって、その「何かの本質」は様々なイメージに自由に宿ることができる。他方で、髑髏が映し出す原風景──桑原正彦の絵画──では、一切の人間的なものは消え、もはや白々しくわかりきった意味以外の何も宿すことのない、死んだ記号の断片が散乱しているだけなのだ。しかしそうであろうとも、そこには人間存在そのものの本性のみならず、ひとりの画家の、あるいは同世代の人ならどこかで経験してきた曖昧な記憶の総体が、子供たちに飽きられ忘れられてドブ川を漂っている金髪の人形のように、そのもっとも深く自然の手に堕ちた姿のなかに、意味深長に謎の問いとして表れている。

遺品 2017 キャンバスにアクリル 193.3×130.2cm
Photo by Kenji Takahashi (C) Masahiko Kuwahara Courtesy of Tomio Koyama Gallery

 「これがアレゴリー的なものの見方の核心、歴史を世界の受難史として見るバロックの現世的な歴史解釈の核心である。世界はその凋落の宿駅においてのみ、意味するものとなる」。
 桑原正彦の絵画世界は、アレゴリーだった。桑原はアレゴリカーとして戦後日本社会を、昭和を、解釈しているのである。戦後日本は、その凋落の宿駅──ありすぎて列挙できない──においてのみ、個々の日本人にとって真に意味するものとなる。

 ヴァルター・ベンヤミンが『ドイツ悲劇の根源』を執筆したのは、第1次大戦後、1923年から25年にかけてであった。敗戦後、ヴァイマル共和国のドイツも、第2次大戦後の日本のように「悪い場所」であったのだろうか。
 「悪の存在根拠はむしろ、絶対的な──つまり神のいない──精神性の国という蜃気楼とともに開示される」(*2)。
 日本の戦後社会の「悪」の存在根拠は、象徴天皇制のもと主体性を欠いた国民による、平和憲法の国という蜃気楼と共に開示される。

不通 2017 キャンバスにアクリル 32.1×41.1cm
Photo by Kenji Takahashi (C) Masahiko Kuwahara Courtesy of Tomio Koyama Gallery

 「このような絶対的な精神性の国が、精神の対極をなす物質的なものと結びついたときに、悪ははじめて、具体的に経験されうるものとなる」。

 このような絶対的なフィクションの国が、フィクションの対極をなす物質的なもの(例えば米軍基地、福島原発)と結びついたときに、戦後日本の「悪」ははじめて、具体的に経験されうるものとなる。
「悪のうちに支配している感情の状態とは悲しみであり、それはまた同時に、アレゴリーの母にしてアレゴリーの内実なのである」。
 「悪い場所」に支配的な感情の状態とは悲しみであり、それはまた同時に、アレゴリーの母にして内実なのである。壊れた記号たちが散乱するあの原風景を前に立ちつくす日本人の基本的な感情は、悲しみだ、と。
 しかし桑原正彦の絵画は、嘆き節とは無縁である。それは、この絶望的な風景をそのままで正反対のものへと転換する。
 「一切の地上的なものが崩壊して廃墟となる、ほかならぬこの壊滅の陶酔という幻想において、アレゴリー的沈潜の理想よりも、むしろその限界が露呈するのである」(*3)。

 戦後日本の矛盾が令和まで累積した果てに、一切の昭和的、平成的なものが崩壊して廃墟となるとき、ほかならぬこの壊滅という陶酔の幻想において、アレゴリカーの思い描く理想が実現するというよりは、その限界が露呈するのである。

 展示風景より Photo by Kenji Takahashi (C) Masahiko Kuwahara Courtesy of Tomio Koyama Gallery

 「髑髏が累々としている場所の、その慰めのない混乱したありさまは、人間存在すべての荒涼を表す比喩像であるばかりではない」。
 放射能汚染、地震、津波、豪雨、パンデミック、天文学的な借金、先進国でも異例な重税……その慰めのない混乱した様は、戦後日本人すべての荒涼を表す比喩にとどまらない。
 「その慰めなき混乱したありさまのうちにはかなさ(Vergänglichkeit)が意味され、アレゴリー的に表現されているというよりも、むしろ、このはかなさそれ自身が意味するものであり、アレゴリーとして提示されているのだ。復活のアレゴリーとして、である」。

 酔いが醒めないことはない。すべての記号は乾き切って意味を含めなくなり、無意味ですらなくなったとき、復活のアレゴリーへと転じるのだ。主観的な「悲しみ」に関係なく、すべての歴史事象と同じように戦後日本もまた過ぎ去っていくだろう。桑原正彦はいま「悲しみ」の酔いから覚めた地点に立っている。しかも、まだ続きがあるのだ。
 「最後の瞬間に[…]アレゴリー的なものの見方は豹変する。[…]神の世界でアレゴリカーは目覚める」。
 「神の世界」とは何か。桑原正彦の今後の絵画にわれわれはそれを見ることになるだろう。

*1──ヴァルター・ベンヤミン「アレゴリーとバロック悲劇」浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫『ベンヤミン・コレクションⅠ』、200〜201頁。以下、本稿の文脈に合わせて訳語や語順を変えた箇所がある。
*2──同書、311頁。
*3──同書、315〜316頁。

『美術手帖』2020年10月号「REVIEWS」より)