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REVIEW - 2020.3.31

展覧会を準備していたあの夜の探索空間。中尾拓哉評 泉太郎「コンパクトストラクチャーの夜明け」

映像を軸に絵画、ドローイング、立体、パフォーマンスなど、メディアと手法を交錯させる作品を制作する泉太郎。本展では、今年ティンゲリー美術館(バーゼル)で開幕する個展に先がけ、これまで撮りためてきた映像を用いた新作インスタレーションを発表。泉が様々な展覧会に際し宿泊したホテルの部屋で一人で実践し続けていた実験のひとつであるという試みを、美術評論家の中尾拓哉がレビューする。

文=中尾拓哉

展示風景 Photo by Kei Okano © Taro Izumi Courtesy of Take Ninagawa, Tokyo
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何か別なものへのフレーム

 2月29日にTake Ninagawaで行われた「コンパクトストラクチャーの夜明け」のオープニングで、3月14日までMinatomachi POTLUCK BUILDINGで開催されている泉太郎の個展「とんぼ」の印刷物に掲載されている、泉が約1年にわたる構想の過程を時間軸上で記した1万5000字を超えるテキストのことを想起していた。そして、その3分の2が11月12日まで名古屋芸術大学で開催されていた「スロースターター バイ セルフガイダンス」の印刷物に掲載されていたテキストの転載であったことと、なぜかいくつかの文字が法則をもつかのように左右反転していたことも。

 ひらめきは、身体、環境、あるいは過去の記憶、さらには未来への予期など様々な要素の結節点に発生するが、それを確保するために「コンパクトストラクチャー」は次のように設定されている。(1)編集機材および展覧会のたびに編成する制作チームは用いない、(2)展覧会に際し宿泊したホテルの部屋において一人で行う。このストラクチャーは、「展覧会の準備」の「準備」という入れ子構造、と同時にそうした「準備」からの「解放」という二重構造に身を置くものであり、泉は一人、ホテルでビデオカメラを用いて撮影した映像をテレビモニターに映し出し、それを再び撮影する。ゆえに、それらはアトリエでのドローイング、あるいは実験映像のように、すでに一定のストラクチャーを備えたジャンルに、「展覧会の準備期間」においてのみ発生するひらめきを追加する。

 展示風景 Photo by Kei Okano © Taro Izumi Courtesy of Take Ninagawa, Tokyo

 例えば《コンパクトストラクチャー(放ち送り)》のように「動かされるオレンジの映像/その映像を流すモニターの前にあるオレンジの映像」という2層の映像もあれば、《コンパクトストラクチャー(カラーの巨人)》のように「フジカラーのねずみのキャラクターの定点映像」を20回以上も重ね、RGBのモアレの塊に溶かしてしまう多層の映像もある。

コンパクトストラクチャー(置き忘れ) 2020 シングルチャンネルヴィデオ
© Taro Izumi Courtesy of Take Ninagawa, Tokyo 

 また多層であっても、《コンパクトストラクチャー(置き忘れ)》のように「便器に嘔吐する人物の映像/その映像を流すモニターの前に置かれた左腕の(手の平を向けた)定点映像/それらの映像が映し出されたモニターの外側に置かれた右腕の(コップを持ち、手の甲を向けた)定点映像/その右腕の先にある泉の目を隠す左手の定点映像」が奥行きをもって重なっている場合もあれば、《コンパクトストラクチャー(逆さピラミッド)》のように「街の夜景と窓の映像/貼られた付箋を団扇であおぐ泉の影の映像/その付箋の映像を流すモニターに貼られた付箋を照らす動くライトの映像」が奥行きをもたずに重なっている場合もある。

コンパクトストラクチャー(野犬) 2020 シングルチャンネルヴィデオ
© Taro Izumi Courtesy of Take Ninagawa, Tokyo 

 もっとも複雑なレイヤーでつくられているのは、動くカメレオンの映像とそのシークバーが映る映像が流される《コンパクトストラクチャー(野犬)》である。まず、モニターに映る映像が突然消えれば、それがモニターの中にあるモニターの映像だということに気づく。そして、その消えたモニターには、そのモニターの外にある事物が映り込む。さらに、その映り込む事物が突然消えれば、それもまたモニターの中にあるモニターの映像だということに気づく。そして、その消えたモニターには、そのモニターの外にある事物が映り込む。と同時に、その最初に消えた映像が映し出されていたモニターの前にある赤い液体の入ったコップとカエルの置物が乗った筒(コップそのものとカエルの置物が乗った筒は二重になっている)が突然消えれば、それもまたモニターの中にあるモニターの映像だということに気づく。そして、残された空のコップとカエルの乗った筒が突然消えれば、それもまたモニターの中にあるモニターの映像だということに気づく。これらの映像のレイヤーが明滅するシークエンスが繰り返されるが、メニュー画面に突然切り替われば、これらの映像のすべてはサムネイルの1つとなる。そこには「2019. 9. 15」という日付が表示されている。そして、映像はループする。

 分断され、重ならなければ、わかりやすい1層のカメラの映像が、重なりの中で理解を離れていき、カメラとモニターの往還をカウントする1つのレイヤー毎に、ひらめきが記録される。三次元空間の二次元化である映像は、カメラと被写体、およびモニターとの距離によってつくり出されたレイヤーの多層構造となり、ひらめきと直結しようとする制作のプロセス、すなわち認識の多重構造を抽出するのである。

《軟骨の旗》(2020)の展示風景
Photo by Kei Okano © Taro Izumi Courtesy of Take Ninagawa, Tokyo

 展覧会を準備していたあの夜と連動する泉の探索空間が、レイヤーの多層性と思考の多重性によってフレーミングされている。さらに、別の展覧会もまた並列化され、初期映画を映写したスクリーンを映画に撮ったケン・ジェイコブス、そしてウォーカー・エヴァンスの写真を写真に撮ったシェリー・レヴィーン(あるいは映像を再撮影した違法動画)のように、2002年の自作の映像作品《マグモド》をカメラで撮影した2020年の新作《軟骨の旗》の中で、ドナルド・マクドナルドのコスプレをし、カーネル・サンダースのコスプレをした人物にハンバーガーを食べさせている/フライドチキンを食べさせられている泉がこらえている笑いと、「スロースターター バイ セルフガイダンス」の印刷物に書かれていた「どうにも自分の目玉だけじゃ物足りない、ビデオカメラを通して見たい」と、学生時にカメラを借り続けたというエピソードが、過去と現在で二重にリンクしていく。泉が「私たちはいまだにカメラのレンズ越しに世界との距離を測り続けている」とする人類史的な距離感とは、かつて、内的必然性として色と形のみで画を成立させようとした抽象画が、たまたまアトリエで横になっていて対象がわからなかった自身の絵という外的偶然性によって誕生したとされるような、カメラと被写体というよりも、主観的な眼に宿る内的必然性と客観的なレンズに宿る外的偶然性によって事物が重なり合う、「眩暈」の中にこそ広がっているのである。

 本展では、作品の構造を「ビデオカメラを通して」コンパクトな構造へと分解したところにある、ひらめきの多重構造が展覧会の影から表れ、むき出しとなり、時空間の境で反響している。「コンパクトストラクチャー」の夜は明ける。そして、また別の展覧会の準備が始まるのだ。

  展示風景 Photo by Kei Okano © Taro Izumi Courtesy of Take Ninagawa, Tokyo