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小杉武久の足跡をたどる「音楽のピクニック」。椹木野衣評「小杉武久の2019」

アーティスト・小杉武久の逝去から約1年が経った今年9月、2週間にわたる連続企画「小杉武久の2019」が東京と埼玉の3会場で開催された。演奏、展示、映像上映を通じて小杉の活動を振り返る同イベントを、椹木野衣がレビューする。

文=椹木野衣

HALL EGG FARMにて開催されたコンサート「for KOSUGI」の様子高橋悠治、和泉希洋志による《Walking Ⅱ》(1982、2012改訂)の上演風景

連鎖する日帰り

 小杉武久が他界して、まもなく1年が経とうとしている。いま、原稿を書いているのが9月30日のことなので、この文章が読まれているのは、命日の10月12日よりもっとあとのことなのだろう。いずれにしても、小杉はもういない。では、彼がとらえようとしていた「WAVE」は、いったいどこへいってしまったのだろう。それは、小杉という単独者が存在しなければ、もう二度と見えて(聞こえて)こないものなのだろうか。それとも、私たちは私たちのやり方で(キャッチボールのように?)それを受け継ぎ、別の仕方でとらえることができるものなのか。

 9月の頭から都心の2ヶ所と関東近郊でいっせいに開かれた連続企画「小杉武久の2019」は、全体でわずか2週間というささやかな催しではあったが、たんなる追悼ということではなく、そのような問いかけと試みを、いよいよこれを機に始めようという内容であったと思う。 

 別のところでも少し書いたが(*1)、小杉は完結した作品を残そうとしなかった芸術家なので、いざこうして彼が何者で、何をしようとしていたのかを知るためには、その軌跡をなぞり直してみる「行為」が必ずともなう。絵画や彫刻、せいぜいがインスタレーションといった代物なら話はまた別なのだろうが、小杉に「回顧」(レトロスぺクティヴ)という言葉は似つかわしくない。それは原理的に過去の仕事の陳列であって、私たちが存在する次元とのあいだに埋めることのできない断絶を生む。言い換えれば、だからこそ、残された者であっても鑑賞はもちろん、研究や調査が可能となる。ところが、小杉が残した作品というよりも痕跡(引っかき傷)のような仕掛けの数々は、たとえそれがインスタレーションのようなものに見えたとしても、いったん設置された瞬間から、その場の気温や湿度、集まった人の数などをその都度、吸収し、刻々と変化し始めることで、私たちと同じ世界を生き始める。それを回顧することなど不可能だ。当然、鑑賞や研究、調査も困難を極める。

 全体の会期の短さは、その意味で、小杉という芸術家にとって、かえってちょうどよい持続感だったように思う。完結した作品がないのだから、それを並べて何ヶ月も見せる展覧会にはなじまないし、かといって数日で終わるコンサートのようなイべントでもないはずだ。そうではなく、2週間という時間のなかで、私たちは小杉の死を改めて意識し、普段は足を運ばないような場所に時間をかけて向かい、見知らぬ、だが小杉を通じて潜在的には親密なはずの人たちと集って、やがてまたそれぞれの来た場所へと散っていく。そういう「日帰り」の出来事の連鎖こそが、小杉にはふさわしい。では、いったいそれをなんと呼べばよいのか。

HALL EGG FARMで開催されたサウンド・インスタレーション展での《Heterodyne II》(2002)展示風景

 実際、この限られた時間の合間を縫って、私は初めて深谷という街の駅に降り立ち、バスに乗り合わせた「仲間」たちと一緒になって会場のHALL EGG FARMへと向かった。そこはギャラリーやホールというより、名前の通り農場の中に忽然と現れるコテージのようなつくりで、来場者たちはその内部の各所に設置された小杉の痕跡の在り処を見つけながら、やがて始まるコンサート「For KOSUGI」に備えた。出演は1950年代から小杉と交流のあった高橋悠治、そして晩年に盛んに共演することになるはるかに若い世代のEYE、和泉希洋志らだ。顔ぶれを見ただけでも、小杉が「CATCH」しようとしていた「WAVE」の幅がどれだけ広く放たれていたかがわかる。高橋が身を置いてきた現代音楽や、EYEや和泉が深く関わってきたロックに加え、このホールはかねてから広くフリージャズやフリー・ミュージックの演奏家たちにも発表の機会を提供しており、小杉自身はそのいずれの分野でも活動をともにしてきた。辺鄙な場所とは思えないほどの満席となった客層の幅にも、それは如実に反映されている。

HALL EGG FARMにて開催されたコンサート「for KOSUGI」の様子和泉希洋志、∈Y∋による《Op. Music》(2001)の上演風景

 その日は日曜だったから、開演は15時半と早く、終了後ふたたびバスに乗り込んで帰路に就く時分でも、まだ十分に空は明るい。そう、まさしくこれは「音楽のピクニック」(小杉)ではないか。ピクニックは長い時間と労力を費やす旅や冒険とは違うし、突発的で気軽な集いというには少しの心の準備が必要となる。一泊する必要はないけれども、日帰りだからゆうに丸1日はかかる。ちょうどそれが、展覧会ともコンサートとも違う時間の幅のように感じられて、そのいずれに固有の体験にも縛られることなく、私たちをその都度、違う次元へと連れて行ってくれた小杉のやり方を、「ピクニック」という言葉はとてもうまく言い表しているように感じる。

映画『白い影への対話』(1964)の一場面。北村皆雄が監督を務め、小杉武久が音楽を手がけた。美術は松目正毅、ハイレッド・センターが担当

 こうしたピクニック的な感覚は、アップリンク渋谷で開かれた上映会とトークでも同様に受け継がれていた。これもまた1日だけ(日帰り?)の催しで、今回の一連の企画のなかではもっとも集約度の高いものだったけれども、そこに込められた時間と空間の広がりには、驚くほどの幅があった。上映されたプログラムには、小杉が音を付けた1960年代の反芸術を象徴するような発掘映画から、沖縄は久高島のイザイホー、そして70年の大阪万博前夜のPR映画が並んでいた。幕間に壇上でトークを行った北村皆雄監督は、映像人類学の世界で大きな足跡を残してきた人物だが、60年代にこれほど小杉と深い関わりがあったとは想像もしなかったし、トークの相手を務め、近年の小杉武久をめぐる調査・研究を引っ張っている川崎弘二は話の引き出しも多く、小杉がその頃関わっていた黎明期のテレビアニメ『鉄腕アトム』での小杉による効果音のつくり方についても言及し、小杉が海外だけでなく、国内においても意外な分野へと足を延ばしていた(ピクニック?)ことが明らかになった。これらはいずれも、「グループ・音楽」「読売アンデパンダン」「フルクサス」「タージ・アンデパンダン旅行団」「マース・カニンクグハム舞踊団」などを基軸に組み立てられてきた小杉の足跡を大きく拡大し、編み直すに足る内容となっていた。

 こうして私は、これらの基底に、ピクニック・マットのように敷かれた、ちょうど2週間にわたる展示へと辿り着く。それがギャラリー360°での小杉のドローイングを中心としたプログラムだ。そのとき私たちは、これらの展示がいかに日頃、当たり前のように呼んでいる「作品」と根本から違っているかに改めて気づくだろう。

《Eclipse》(1967)のドローイング 1994
《mano-dharma-concert》(1967)のドローイング 2003

 作品として見たとき、小杉の絵はスカスカで、ほとんど見るべきものがないように感じられる。しかし、これらのドローイングを、私たちがそれぞれの「ピクニック」に出かけ、その行き先でなにか新しい発見や出会いを「CATCH」するためのきっかけとするならば、絵の見え方(それこそがWAVEだろう)はまったく変わってくる。小杉にとっては、それもまた音楽の本来あるかたちであったはずだ。「音楽のピクニック」とは、やはりピクニックのための音楽ということではない。音楽そのものがピクニックであり、ピクニックと音楽との差は、そのときほぼ完全に撤廃されている。煎じ詰めれば、小杉の死もまたひとつのピクニックに過ぎないかのように。だからこそ本プログラムのタイトルは、追悼でも回顧でもなく、ただただ「小杉武久の2019」と投げ放たれるだけなのだ。 

*1――椹木野衣「小杉武久とマランダという名の亀、その終わりのない旅と夢」(artscapeフォーカス 2019年5月15日号)https://artscape.jp/focus/10154654_1635.html

『美術手帖』2019年12月号「REVIEWS」より)

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