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サミュエル・ベケットから見るボルタンスキーの「生」。多木陽介評「クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime」展

フランスを代表する現代アーティストのひとり、クリスチャン・ボルタンスキーの国内初となる大型回顧展が大阪・国立国際美術館で開催中だ。作家自身が「展覧会をひとつの作品として見せる」と語るように、インスタレーション作品としても構想されている。初期作品から最新作までを網羅する本展から、ローマ在住の批評家、社会活動家の多木陽介が、ボルタンスキーと劇作家サミュエル・ベケットの交点を読み解く。

文=多木陽介

クリスチャン・ボルタンスキー スピリット 2013 作家蔵 © Christian Boltanski / ADAGP, Paris, 2019 撮影=福永一夫

ヴァニッシング・ヒューマニティ ――サミュエル・ベケットとクリスチャン・ボルタンスキーの見つめる歴史の消失点

 今回の国立国際美術館でのボルタンスキーの展覧会「クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime」展に足を踏み入れて、サミュエル・ベケット(1906〜89)の世界との驚くほどの類似性に気づく人は多いだろう。

展示風景より。手前、右奥が《発言する》(2005、作家蔵)、中央が《ぼた山》(2015、作家蔵)
© Christian Boltanski / ADAGP, Paris, 2019 撮影=福永一夫

 形式的にどう見てもベケットの作品を意識しているとしか思えないものもいくつもある。《ぼた山》の黒々とした衣服の山は、『しあわせな日々』で主人公のウィニーが1幕では腰まで、2幕では首まで埋まっている小丘にそっくりだし、《発言する》の人形たちの様式化された前傾姿勢は、1981年の映像作品『クワッド』に登場する、4人の歩行者を彷彿とさせずにはいられない。《心臓音》と題されたインスタレーションにおいて、大小多数の濃い灰色の長方形に埋め尽くされた周囲の壁は、ベケットが『モノローグ一片』の中で描写する、かつてたくさん写真が貼られていたはずのあの空虚な壁そのものだ。

 また後期の劇作やラジオ、映像作品の中で、ベケットは死者ないし亡霊のような人物をよく登場させたが、「影」「スピリット」「モニュメント」「聖遺物」「その後」など、本展の会場を埋め尽くす大半の作品も、存在を希薄化させた「亡霊」ないし「死者」を連想させるものが圧倒的に多い。

サミュエル・ベケット『クワッド』より 画像提供=多木陽介
※本展出品作ではありません

 だが、ベケットとボルタンスキーの間の斯様な共通点や彼らの作品に頻出する死のテーマを指摘するだけで喜んでいてはならない。彼ら2人が選んだ死や亡霊の表象も、そこで描かれる絶望的に希薄な個の存在感も、また逆にその窮地から不器用に立ち直ろうとする彼らの滑稽にも聖なる身振りも、いずれも死そのものを描くためにあるのではない。一見そう見える仮面の裏で、彼らは大戦を経た20世紀後半以降の時代を凝視し、そこで歴史の主体の地位から失墜した人類を寓意的に描こうとしているのだ。

「クリスチャン・ボルタンスキー - Lifetime」(2019、国立国際美術館)展示風景より
撮影=福永一夫

 若い頃は、言語形式の破壊と革新だけに関心を持つ前衛作家だったベケットだが、第2次世界大戦で戦争の強大な破壊力を経験した後、その視線は芸術の形式よりも人間自身に向かい、ハイデガーやその弟子のギュンター・アンダースらと非常に近い歴史認識を手に入れる。つまり「技術(テクネー)」の覇権の下で、人間が歴史の主体としての地位を完全に失い、脇役に回っただけでなく、そのことにすらまったく気づいてもいない「時代遅れの人間」になってしまったという認識である。

 つまり、不条理演劇作家というレッテルの下で長年誤解されてきたベケットが生涯探求した本当の主題とは、じつは「生」と、それを捕え、調教、管理しようとする「技術」の間の葛藤と緊張の歴史だったのである。人間を越えた世界がそこにある。そして60年代以降の彼の作品では、演劇、映像、散文とジャンルを問わず、「技術」による「生」の拘束と非人間化の形式がどんどん強度を増し、そのなかで人間は、まずは身体、そして声、遂には思考の自由までをも奪われ、その主体性をほぼ完全に空洞化されてしまう。

クリスチャン・ボルタンスキー モニュメント 1986 作家蔵
© Christian Boltanski / ADAGP, Paris, 2019 撮影=福永一夫

 この空洞化した人間を包む空間は、歴史を前にした人類の盲目さを表す漆黒の闇(一見あの世に見える)か、機械的に再生される擬似生命現象によって埋め尽くされていく。後者は、あらゆる機械が言葉を喋り、地下道や駅に機械的再生による小鳥の鳴き声が蔓延する現代日本都市では既に日常化した現象だが、ベケットはこの風景に隠れた意味をかなり早い時期に散文『人べらし役』(1965〜70)で突き止めていた。外部のない閉じられた空間内の明度と温度、そしてノイズの強度が正確に4秒間隔で上下を繰り返すのだが、まるで空間が生を得て息づくかのように見えて、じつはそれは、機械による自然の排除を意味していた。

クリスチャン・ボルタンスキー 黄昏 2015 作家蔵
© Christian Boltanski / ADAGP, Paris, 2019 撮影=福永一夫

 ボルタンスキーの作品にもしばしばそっくりな表現が現れる。《心臓音》の機械的に再生される鼓動音も《黄昏》で人間の生命を表す電球たちも、まったく同種のレトリックで、生を機械的疑似生命現象に翻訳することで、逆に、人間や自然が世界から排除されて行く歴史が暗示される。究極のパラドックスだが、ボルタンスキー自身が生まれてから今までの人生の秒数をただデジタルにカウントする作品《最後の時》ほど本来の「人生」と距離のある作品もなかろう。

クリスチャン・ボルタンスキー 最後の時 2013 作家蔵
© Christian Boltanski / ADAGP, Paris, 2019 撮影=福永一夫

 表象と生のあいだに横たわるこの冷たくも無限大の距離。ボルタンスキーが、死を語る振りをしてその背後に隠しているのは、この距離だ。その前では、暴力も悲しみも、そして死さえも従来の意味を保つことができない。そんな、我々には受け入れ難い世界、人文的な解釈の通用しない世界が、SFではなく既に実現しつつあることを、ベケットもボルタンスキーもしっかりと見つめてきたのである。

編集部

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