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全シミュラークル的状況の構築。
長谷川新評 武田雄介展「void」

昨年、金沢21世紀美術館で開催された個展「アペルト06」も記憶に新しい武田雄介。京都のMORI YU GALLERYで現在開催中の個展は、「void」(=無効)と題され、ゲームエンジン「Unity」の世界と物理空間を同一化させるようなアプローチを見せている。その背景にはどのような意図が含まれているのだろうか。インディペンデント・キュレーターの長谷川新がレビューする。

文=長谷川新

展示風景 Courtesy of MORI YU GALLERY

Re: フィッシング・サイト

 ある意味で、武田雄介ほど論じやすい作家はいない。多読する哲学のテクストや映画のシークエンス、コンテンポラリー・アートの諸技術・諸文法が巧みに実装された彼の「インスタレーション」は、おそらく批評を書こうと思えばいくらでも書けてしまうものだ。

 武田にとって最大規模の展示であった、金沢21世紀美術館の「アペルト06」を評した星野太は、同展を「フィッシング・サイト」と形容している(*1)。すなわち、鑑賞する者は、武田に「釣られてはならない」。作品自体が断片の乱反射であり、一時的なもの、仮のもの、中座されたものの集積、いわば永遠のβ版であるということを理由に、批評もまた、断章仕立てとなるか、あるいは「釣られる」か(例えばご丁寧にフーコーの生権力や現代のメディア状況を描写しはじめるなど)のどちらかの隘路(あいろ)へと陥る危険がある。しかし今回、筆者はこの大きく開いた隘路の入口に飛びこんでみようと思う。

 今回の展覧会のタイトル「Void」とは、そのまま受けとれば空っぽであること、何もないことを意味しており、プログラミングにおいては、引数(ひきすう)をとらない場合などに用いる語である。おそらくこの語彙が採用された過程には、これまでの「階層構造(レイヤー)」によるインスタレーションから離れ、より一元論的に世界を認識しようとした苦闘がある。

 ただややこしいのは(そして重要なのは)、それでもなお、武田のインスタレーションにはレイヤーによる思考が色濃く反映されているという点である。そのため本展は「レイヤーから一元的理解へ」といったようなたんなる移行として整理できるものではない。Voidの二重性はそのために見出されている。

展示風景 Courtesy of Artist, MORI YU GALLERY

展示風景 Courtesy of Artist, MORI YU GALLERY

​ 武田は今回、ゲームエンジン「Unity」を導入(インストール)し、仮想空間と物理空間それぞれに「インスタレーション」を設営している。入れ子構造や、階層性よりも、どれもが等価に貧しい全シミュラークル的とでも呼べる状況の構築が目指されている。「仮想空間にインスタレーションを設置し、それと同様のインスタレーションを物理世界にも設置する」という作業は可逆的であり、「オリジナル/コピー」という主従関係には回収されない。

 ドローイング、彫刻、絵画、映像など多岐にわたる作品群や、展示空間を分節する細長い金属棒たちは、水平的な階層性を撹乱するためにひとまず動員されている。しかし、結果として鑑賞者がまず受け取るのは、階層的な作品構造だ。このギャップは十分吟味されるべき問いである。

 確認しておきたいが、20世紀の前半に立て続けに発明されていったコラージュ、モンタージュ、シュルレアリスムなどの実践は「バラバラなものがなぜか併置される」事態への強い反省をもたらしている。キャンバスのなかで、スクリーンのなかで、まったく関連性がない事物や出来事が併置され、連続性を与えられ、統合されている。

 ダダイスム/シュルレアリスム研究者の塚原史が論じているように「シュルレアリストたちは『政治的なもの』との関わりにおいてのみ運動体としての持続を手に入れることができた集団であった」だけではなく、「全体主義的言語のシステムが、少なくともその起源と形態において、同時代の詩的言語の試みと何ものかを共有していた」(*2)という意味で、強い反省を強いたのである。ファシズムとシュルレアリスムは、その技術面において極めて似通っていた(満州国における五族共和の実装とはまさにコラージュ—統合の構成的権力の行使そのものである[*3])。

 20世紀後半、とりわけ1960年代から70年代を通して全面化していく、インスタレーション、ミニマリズム、コンセプチュアリズム、キュレーションの諸技術の行使は、かつての前衛たちの「本来因果関係のないバラバラのものを並置し統御してしまう権力の行使(とその反省性)」がより徹底され、かつ、より持続的で柔軟で包括的な管理体制へと移行していく事態とパラレルなものだ。少なくとも、これらの実践が、なぜ同時代的に出現したのかという問いに関しては、権力論的な視座からの分析が求められる。

 単一のメディウム—メディアから、複数のメディウム—メディアへ、というポストメディウム的条件—状況においては、グローバリゼーションの体制のもとで私たちが「移動可能なマルチメディアのインターフェイス」であることを強いられているという事実を忘却して、「こんなにも多種多様なメディア—メディウムを操作して、いろんな場所でインスタレーションできるんです」という能力の説明と誇示に向かった瞬間に「詰んでしまう」。

 「こんなに上手に現代社会を生きているんです」という態度が作品の価値へとすり替えられることを、私たちは全身全霊で避けなければならない。武田雄介はこのことを十分に理解している。

 彼の作品に見出される階層構造をめぐる葛藤には、上述のコラージュ的権力やケアの権力に対する熟考がある。階層的秩序から離れた思考を言祝ぎたい、しかし、階層秩序を隠蔽してはいけない。階層によって世界を把持することが身体化されていることを受けとめねばならない。本展の賭金は、「Unity」空間での「どうとでもなってしまうスケール感(反空間性)」と、「Unity」空間を成立させているプログラミング言語の取り扱いに対してどのようにアプローチしうるか、という点にあった。

脚注
*1ーー星野太 展評「アペルト06:武田雄介」(『美術手帖』2017年4月号、美術出版社)
*2ーー塚原史「シュルレアリスムと全体主義的言語」『ダダ・シュルレアリスムの時代』(ちくま学芸文庫、2003)
*3ーーこうした問題については、岡崎乾二郎・松浦寿夫著『絵画の準備を!』(朝日出版社、2005)の「『国民絵画』としての日本画」の章でより具体的に論じられているので参照されたい。

展示風景 Courtesy of Artist, MORI YU GALLERY
展示風景 Courtesy of Artist, MORI YU GALLERY

編集部

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