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2017.12.22

ズレから始まる美術の魅力と怖さとは?
椹木野衣が見た、「西野達 in 別府」

毎年秋に別府で行われる芸術祭「in BEPPU」に西野達が招聘された。作家独自の方法で、市内の公共物を用いた作品を展開した本展を、椹木野衣がレビューする。

文=椹木野衣

西野が別府で撮り下ろした写真作品《無口なやつ》
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椹木野衣 月評第113回 「西野達 in 別府」 別府は地獄めぐり

 西野達が別府でプロジェクトを手がけると聞けば、これまでの傾向からして、駅前に立つ油屋熊八像を屋内に取り入れてホテルにしてしまうというのは、ある程度まで予想がつくというものだ。しかし、定番のようでいて微妙なズレが忍び込み、単純には楽しめず、娯楽にもなりきれず、そこからゆっくりと美術が始まる─というのが西野の魅力であり怖さであるなら、私たちはそちらのほうに目を向けなければならない。

 「油屋ホテル」と名付けられたこの仮設の家屋は、別府駅前の本当に正面に立つ。温泉街だから夜もそれなりにひと気があり、その人たちが酒気を帯びていることも少なくなかろう。しかも内部は誰でも使える手湯を無理やりプライベートな露天風呂に仕立て上げていて、それでいて囲いが駅からの視線を十分にふさいでいるかは微妙で、女性ならくつろぐどころか恐ろしいのではないか。「ホテル」と名は付いていてもホテルではないし、そもそも宿泊法上、正規のホテルであってはならない。だから、なにか起きても身を守れるかどうかはわからない。しかし、だからアートになりえているという逆説もある。快適で安全なだけなら、それはもうアートではなくたんなるホテルだろう。

《無口なやつ》の屋外展示風景

 こういう裏切りというか反転というか、そういう死角が西野のつくるものには常にあって、たんに別府観光にアートが仕込まれているというのではなく、アートを通じて別府を「見直し」てみようというのであれば、そういうところを看るべきなのだ。ほかにも、別府といえばやはり当然のように西野が目をつけた別府タワーは今回、赤いよだれかけを付けた笑顔の巨大なお地蔵さん(矛盾?)に変化(へんげ)させられている。方便としては別府のシンボルがどこでも見かける路傍のお地蔵さんに成り代わり、温かく皆を見守ってくれるというのだが、仮にそうなのだとしても、では、そもそもなぜ別府にはお地蔵さんが多いのか。とくに一遍上人が開いたとされる鉄輪(かんなわ)地区などはお地蔵さんだらけだ。しかも会期は(これは偶然のようだが)クリスマス・イヴで終えることになっている。イエス・キリスト生誕の日に姿を消す地蔵? そのことの意味はいったいなんだろう?

《残るのはいい思い出ばかり》は実際に存在する住宅をモデルにすべて発泡スチロールで制作された作品 撮影=脇屋伸光

 ほかにも、今回は街のいろんなところに隠しアイテムのように作品が仕掛けられている。私たちは地図を片手にそれらを探しては徘徊する。共通しているのはタイトルがどれもユーモラスなことだ。しかし失念してはいけない。《別府の魅力から逃れられるか?》は明らかに交通事故と夜逃げの匂いがするし、《残るのはいい思い出ばかり》の白い家は、タイトルとは裏腹に強制的に記憶を消し去られているようでもあり、ではいまはどこにいるのか、そこは過去より悪い思い出のある場所なのかと、考え出したらキリがない。

「別府タワー」をお地蔵さまに見立てた《別府タワー地蔵》 写真提供(すべて)=混浴温泉世界実行委員会

 そういえば西野は最初、別府にかつてあった日本一大きな大仏(知ってましたか?)を再現するプランを持っていたというから、《別府タワー地蔵》はいわばその「身代わり」として生まれたとも言えるはず。だが、その大仏跡地を訪問した私は、そこにあるものを見てそれ以上追究するのを中断した。理由は、もし書く機会があればそちらに譲ろう。

 (『美術手帖』2018年1月号「REVIEWS 01」より)