「2章 アジアへの/アジアからのまなざし」のセクションへ移る。明治時代以降の日本は台湾、朝鮮を植民地として領有、さらには帝国主義国家として圏域を拡張した。1932年に満州国が日本の傀儡国家として建国されると、複合民族国家を志向する理念「五族協和」が提唱された。さらに1940年の第二次近衛内閣は、「大東亜共栄圏」というスローガンを打ち出す。日本を中心にアジアのあらゆる民族が共存共栄する共同体構想である。
これら歴史の過程で、異国の文化や風俗は、画家に新たな画題を提供することとなる。和田三造《興亜曼荼羅》(1940)は、大東亜共栄圏の理念をそのまま図像化している。画面内にバリ島、インド、タイ、ミクロネシア、朝鮮、中国などの建築・風俗がびっしりと描き込まれ、画面中央に白い彫像が担がれる。これがどうやら「アジアのリーダー」たる日本を表している。本作をもとに2メートル超の大作が描かれ、大阪高島屋の食堂に飾られていたが、そちらは戦災で失われてしまった。

医学を学んだのち画家となった鈴木良三は、日本赤十字社から作戦記録画の作成依頼を受け、ビルマへ渡って野戦病院に滞在し取材をする。その体験をもとに描いたのが《衛生隊の活躍とビルマ人の好意》(1944)。土地の暮らしを守るのが日本兵で、現地の女性は兵士に奉仕するという図式は、作戦記録画において定型化されていたものだ。本章では、中国、シンガポール、フィリピンの作家の作品も加えて、このような日本側の見方の相対化を図っている。

撮影=木奥惠三



















