さて髙島野十郎といえば、「蝋燭」「月」「太陽」など、光と闇を主題とする作品群である。とりわけ蝋燭を描いた小品の多くはサムホールサイズの小さな画面に、静けさと緊張感を孕んだ一本の炎が、徹底した写実で表現されている。これらは展覧会で公開されることなく、親しい人への贈り物として密やかに描かれたという。暗闇の中に浮かぶ炎は、たんなる光源ではなく、野十郎自身の精神性や祈り、そして受け取る人への感謝が託されている。微かな炎のゆらめきとともに、画家の孤独と慈愛が画布から静かに立ちのぼる。

「月」や「太陽」をテーマとした作品もまた、野十郎芸術の本質を象徴する。太陽の連作は、朝や夕方、あるいは天空を覆う激しい光など、多様な瞬間がとらえられている。そこでは光はさまざまな色彩の粒となって広がり、空間全体を温かく包み込む。現実を超え、光そのものの在りようを追い求める表現は、仏教的な「無常」の観念を思わせる。晩年の柏時代に描かれた月の作品は、初めこそ月夜の風景を含んでいたが、やがて余計なものを徹底して捨象し、画面にはただ一点、闇の中に満月が輝くだけとなる。ストイックなまでに削ぎ落とされた画面構成が、逆に永遠性や静謐な力強さを感じさせ、鑑賞者の心に深い余韻を残す。蝋燭も月も、消えざる光として、時を超えて我々の内奥を照らし続けるのである。

そして、野十郎芸術のもうひとつの柱が、風景画である。旅を愛した彼は、日本各地のみならずヨーロッパにも長期滞在し、それぞれの土地の最も美しい表情を見極め、季節や時間を選び抜いて描いた。春のれんげ草、夏の濃緑、秋の紅葉、冬の雪景色など、四季の変化を明確にとらえた作品群は、たんなる写実にとどまらず、自然の営みの奥に潜む神秘や仏教的な無常観をも描き出している。細やかな筆致で丁寧に重ねられた色彩には、時間や命の移ろいに寄り添う静けさと、対象への深いまなざしが感じられる。野十郎はただ風景を写すのではなく、時間の流れや生命の気配、目に見えぬものまでも画布に定着させようとした。その姿勢は、風景画のひとつ一つからも強く伝わってくる。



















