石州の茶の湯の「好み」
大名として、江戸、国元、京都の3か所を往来した石州は各地で茶会を開いている。そこには、幕府の重鎮・保科正之、大老・酒井忠清ら時の幕閣から、旗本、僧侶、町人まで幅広く招かれていたことが、残された茶記からわかっている。遠州亡き後、彼らの後援を得て、寛文5年(1665)には、四代将軍・家綱への献茶が実現、茶匠としての地位を確固たるものとし、63歳の死まで茶の湯に精進した。
およそ200回にわたる茶会の記録から、彼が客組を変えながら何度も使用したお気に入りの3つの茶入とその付属品や、自筆の書と自作の茶道具、そして将軍への献茶の際に使用された道具などに、“石州好み”や武家茶道の豪華さを感じる。

お気に入りの茶入は、釉薬が独特の味を出していてそれぞれの個性が楽しい。付属品の仕覆(茶入を包む裂の袋)や牙蓋(げぶた:象牙の蓋)には、各茶人の好みが書かれており、それぞれの微妙な感性の違いを比較できる。これだけ付属品が揃って公開されるのも貴重な機会だ。




石州自身は自作のものを自らの茶席にはあまり使用しなかったようだが、しばしば周囲の人からの求めに応じて制作したという。書には、武人のきりっとした筋とともに、どこか流麗さが感じられるだろう。茶杓は、竹の立ち落としをそのままにした柄の大胆さが、絶妙な匙のカーブと相まって、すっきりとした美しさに注目だ。他の道具のデザインも、現代の作とも思えるモダンで、創意に富んだものが多い。




将軍・家綱への献茶の際には、道具を将軍家の名物茶道具「柳営御物(りゅうえいぎょぶつ)」から選ぶことを許され、床の間には無準師範(ぶじゅんしばん)の墨蹟を、茶入は唐物から選んだそうだ。

