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「絵ごころでつながる-多磨全生園絵画の100年」(国立ハンセン病資料館)レポート。終わりゆく絵画活動のあゆみをたどって

東京・東村山市の国立ハンセン病資料館で「絵ごころでつながる-多磨全生園絵画の100年」が開催中だ。会期は9月1日まで。

文・撮影=三澤麦(ウェブ版「美術手帖」編集部)

展示風景より

 東京・東村山市の国立ハンセン病資料館で「絵ごころでつながる-多磨全生園絵画の100年」が開催中だ。会期は9月1日まで。企画は美術家としても活動をしている吉國元(国立ハンセン病資料館 学芸員)。

 ハンセン病は「らい菌」という細菌に感染することで引き起こされる感染症の一種。近代以降の国の誤った政策(*)により、患者やその家族らが偏見・差別を受け、甚だしい人権侵害を引き起こしたという問題が存在している。同館は、そういった問題に晒されてきた患者や元患者、その家族の名誉回復を図るために1993年に開館。ハンセン病問題に関する正しい知識の普及啓発による偏見・差別の解消を目的とし、活動を続けている。

 本展は、ハンセン病患者の療養施設である国立療養所多磨全生園(以下、多磨全生園)に見られた絵画活動を通史で紹介する初めての展覧会。1923年に第一区府県立全生病院(現・多磨全生園)の礼拝堂で初めて開催された「第壱回絵画会」を皮切りに、戦時中に結成された絵画サークル「絵の会」の活動、そして近年の個人における制作活動までを、111点の絵画作品(文献込みで231点)から紹介するものとなっている。

展示風景より

  入居者の作品が発表された「第壱回絵画会」はあまり記録が残っていないものの、そのひとりであった山本哨民は、同施設で発行されていた雑誌『山桜』にこの絵画会の開催意義について「展示された絵画の描き手たちは言葉や文章で表現できない『何かの要求』をしているが、患者がおかれている状況ではどうすることもできない。そこで絵筆によってそれを表現したものが出展された絵画である(原文を要約)」と書いている。隔離によって自由が遮られてしまった患者らにとって、この絵画会は自発的で主体的な自己の表現を表す場として画期的であったのだ。

展示風景より、『山桜』表紙絵(第6号[1920.1]〜第26巻第7号[1944.7])。文芸や評論を掲載した同施設発行の雑誌『山桜』『多磨』は、入居者らにとってのほぼ唯一の言論の場でもあった。いっぽう、これは施設側(国)による管理目的の慰安施策でもあった。こうした園の管理統制が、戦時下には一層強まったことが表紙絵からも伺える

 1943年には、多磨全生園の描き手たちによって絵画サークル「絵の会」が結成された。当時入居者らは戦時下ゆえに施設側からの強い統制を受けていたが、結成を提案した医師で自身も絵を描いていた義江義雄と同会顧問の池尻慎一は、この絵画活動を通じて入居者らと交流したという側面も見受けられる。

展示風景より、第2章 絵画サークル「絵の会」

 戦後になると、新憲法発布を記念した書画展や、年に2回施設内の学校での展覧会が実施されるなど、絵の会の活動は本格化。47年にはハンセン病の治療薬が導入されたこともあり、より外部との交流が増えていくきっかけとなった。

 50年代からは美術団体である旺玄会の画家らが絵の指導を行うといったこともあり、55年の第9回旺玄会展では絵の会から9名が入選を果たした。描かれたテーマも、施設内の「病室」「洗濯場」「木工場」などといった施設内の様子から、外の景色へと変化しており、入居者たちの活動範囲が徐々に広がっていったことが伺える。会場では、おもに絵の会創設時からのメンバーである瀬羅佐司馬(?〜1949)、氷上恵介(1923〜84)らの活動についてが紹介されている。

展示風景より、左パネルは「絵の会」メンバーによる作品(1955頃)、右は長洲政雄《武蔵野の森》(1958)
展示風景より、氷上恵介による制作活動。治療薬の導入や高度経済成長を背景に社会復帰する入居者が増えていたが、氷上の家族はハンセン病による差別を恐れて一家離散していたため、氷上は施設に留まっていた。氷上はその後、多磨全生園の様子を絵で記録していく

 入居者の社会復帰が進んでいた頃、絵の会はメンバーの減少などで活動は衰退していったが、個人で制作活動を続ける者もいた。例えば、転園を繰り返して多磨全生園に入所した国吉信(1910〜94)は、独自に絵画制作に励み、様々な美術団体展で入選を果たしていた。施設内でも職員を描いたり、自身の個展を開催するなど、その才を活かし幅広く活動していた記録も伺える。いっぽう、国吉はほかにも新聞などで患者の強制隔離に関する法律の廃止を訴えていたが、法が廃止されるのを見ることなくこの世を去ることとなった。

展示風景より、国吉信による作品群。傾向として、1970年代まで、同施設で描かれた絵画作品の保存はあまりされてこなかった。後世に残すという意識は近年に生まれたものではないか、と吉國は語る

 さらに近年まで活動していた、多磨全生園絵画における唯一の女性描き手である鈴村洋子(1936〜2020)の「現代絵巻」のシリーズや、ある入居者に度々送っていたという絵葉書も紹介。そこには日記のように日々の出来事が記されており、鈴村の心情の吐露が表情豊かな絵とともに綴られているのも印象的であった。

展示風景より、鈴村洋子による「現代絵巻」シリーズと絵葉書。おもなモチーフとして表情豊かな地蔵が数多く登場している

 会場の最後には、1冊の詩集が紹介されている。これまでは入居者らによる絵画制作の活動を取り上げてきたが、なかには絵を描きたくても描けなかった入居者がいたという事実についても、本展では触れられている。

展示風景より、長浜清遺作詩集『過ぎたる幻影』(私家版、1971) 編=光岡良二。見開きは、同詩集より「喪失」

 企画を担当した吉國は、本展に関して次のように語った。「病気の治癒、当事者の高齢化および減少により、いつかは園内の描き手がいなくなる。つまり、多磨全生園の約100年の絵画活動は終わりが見えている歴史であり、今後語り継いでいくことが大切になる。本展が、描き手たちが絵を通じて、どのように周囲とつながってきたかを振り返る機会としたい」。

 ほかにも、会期中の5月5日には、アーティスト・青柳菜摘による朗読会を開催。また、6月1日には静岡県立美術館館長の木下直之を、7月13日にはカンザス大学美術史学部准教授の金子牧を招いた講演会も開催される。

 また、館内常設展にもぜひ足を運んでほしい。そこでは、ハンセン病をめぐる日本の歴史や国立ハンセン病資料館のあゆみについてわかりやすく紹介されている。あわせて見ることで、全体像やそのなかにおける絵画サークルの活動がどのような位置付けであったかを理解することができるだろう。

*──1907年に放浪するハンセン病患者の隔離を定めた「癩予防ニ関スル件」(明治40年法律第11号)が成立。その2年後に、第一区府県立全生病院(現・多磨全生園)が開院した。31年には同法律が改正され、すべての患者を本人の意思に関わりなく隔離する「強制隔離」が始まる。この強制隔離は、「らい予防法」が廃止される96年まで続いた。

編集部

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