作者不在の作品をどのように継承するのか
──修復にあたっては、制作当時の記憶や判断が重要だったと思います。三上さんとは、生前どのようにコンセプトやイメージを共有していたのでしょうか。
平川 三上さんの指示はコンセプトを論理的な言葉で伝えると言うよりも、具体的な例や、そうでない場合は擬音などの感覚的なものを多用したものでした。《欲望のコード》の「巡視する複眼スクリーン」でいうと、昆虫の複眼という大きなモチーフの話がまずあり、踏み込んだ内容としては、インターネットから監視カメラの映像を取り入れ、過去の映像と壁に設置したアームカメラが拾った映像をリアルタイムでキャプチャーしてあわせて使えるようにしたい、といった映像素材の指示がありました。
それからプロトタイプをつくり、実際に見ていただきながら制作を進めました。やはり、昆虫の複眼の印象を映像でどう表現できるのか、どういったアルゴリズムでそれが実現できそうなのか、ということは、言葉で説明しても共有しきれないので、僕が行うプログラミングと三上さんが想像していることの結びつく部分を手探りで見つけようとしました。そもそも複眼は光を見る器官であって映像を映す器官ではないわけなので、それがどういったものであるべきなのかは、おそらくふたりともわかっていなかったと思います。
──三上さんのイメージを具現化するプロセスを平川さんのプログラミングが担う、ということですね。
平川 僕にとっても初めてつくるものですし、三上さんにとっても初めて見るものができあがっていくので、何かを実際に見ないとコメントのしようもないわけですが、プロトタイプを見たときの三上さんのリアクションですぐにわかります。そこから先のフィードバックが指針となり、進む方向が決まっていく感じです。ただ、最初に三上さんが思い描く本当の意味でのマスタープランは、現実の技術的には不可能なものを想像していたと思うんですね。それを思い描きながら、実現不可能なプランに執着するのではなく、自分が持っているイメージに可能なだけ近づき、作品として着地させるためには、現在ある技術に寄せていく必要があることはよく理解されていたのではないかと思います。適当なタイミングで折り合いをつけ、着地させるのが本当にうまかったと思います。
三原 僕はYCAM時代、基本的に三上さんと制作スタッフのあいだの技術的な窓口を務めていたのですが、平川くんが言ったように、実現がほぼ不可能なことをわりとニュートラルに伝えてくるんですね。「昆虫が蠢くようにして鑑賞者を追いかけてほしいの」みたいな。それを受けて、YCAMの大脇理智が最初に割り箸とストローを輪ゴムで止めたようなものをつくり、関節とロッドの抽象的な運動を三上さんに見せた記憶があります。それをシリンダーサーボとステッピングモーターで駆動させ、カメラとプロジェクタを水平垂直に操作し、天井にグリッド配置でセンサーをつければ、そこのエリアの人の動きをキャプチャーするシステムをつくることができると説明しました。
昆虫が蠢くようにして空間自体が人を追い回す状況が生まれるというその当時に実現可能な前提をつくり、ロボットアーム制御とセンサーの一連のシステムをアーティストのクワクボリョウタさんにお願いしたり、ロボットアーム機構とデザインをYCAMの大脇理智さんに担当してもらったりしました。当然三上さんには、細かく技術的な説明を逐一しましたが、最初のイメージが共有できれば、技術的なディテールはわりとこちらの判断に任せてもらえました。

──そうした制作時のプロセスが、おふたりをはじめ制作に関わった方々のあいだで共有されていたからこそ、修復が行われ、今回の展示が可能になったのだと感じます。実際に修復に携わって、改めて三上さんの作品の独自性をどのように感じましたか。
三原 三上さんは人間の知覚を個別に取り出して、ある意味で研究テーマのようにして扱っているので、表面的にはクールな構造の作品を制作してきたように思うのですが、実際には三上さんの身体や感覚の人間的な部分をもととして作品が手がけられていたわけです。作品システムは抽象的にデータを取り出すようですが、三上さんの知覚でもあり、身体的でもある。矛盾しているようだけど、面白いつくられ方だなと感じます。
実際のところ三上さんの作品は、その空間に入った瞬間、インスタレーションを体験しているのではなく、自分自身をとらえられているような感覚を覚えることが多いんですね。誰かの作品を鑑賞者として楽しむ、作品と自分が切り離された感覚ではなく、作品を体験することで、自分自身のことを強く意識するようになります。どの作品においても、自分がターゲットとしてとらえられており、その存在や痕跡が作品のそこかしこに痕跡として投影されている。結果、体験者である自分の意識は作品ではなく、自分自身へ向かう感覚があります。あの空間の静寂かつ不気味な感じを、三上さんがわりと気に入っていたこともよく覚えています(笑)。

平川 あと、作品をよく鏡に喩えていたなということをいまの三原さんの話を聞いて思い出しました。「鏡をなかなか越えられないのよ」というのは学生のときによく耳にした言葉です(笑)。今回の展示で、《Eye-Tracking Informatics》の視線データの記録をもとにインタラクションの研究をした展示を行っているのですが、あの作品は鑑賞者の視線がなければ成立しないように、三上さんの作品は、作品の体験者がいなければ始まらない。それはすごく特殊な点だと思います。体験者がいなければ作品なんて機械の塊でしかない、というような言い方をよくされていたんです。インタラクティヴであることが本質的な作品性と結びついている、という点は三上さんの独自の要素ですね。

三原 ICCの無響室で、《存在、皮膜、分断された身体》(1997)という三上さんの作品(*1)を初めて体験したのですが、サラウンドで三上さんの心音や呼吸音が聞こえて、目の前に映像が流れてくるんですね。いまでこそ、そうした音響や映像のシステムやプログラミングツールなどは普及していますが、90年代当時は、特殊な装置をつくりたいと思ったときに、自分たちでつくりかたから考える必要があったわけです。それに取り組んだ人たちがのちにメディア・アーティストと呼ばれるようになっていき、こうした分野を開拓していったと思うんですが、あの作品を体験し、コントロールシステムも確認できたことで、三上さんが本当につくりたかったものを目指して完成させた作品なんだと強く感じました。


*1──今回無響室で展示される作品は、三上による《存在、皮膜、分断された身体》(1997)の一側面であるサウンド・インスタレーション版の再現となる。



















