ポーランド映画の巨星、アンジェイ・ワイダ。国立映画アーカイブ主任研究員が語るその軌跡と日本とのつながり【3/4ページ】

再構成した展示と日本との深いつながり

──今回の大回顧展は、クラクフ国立美術館の大規模な展示に日本版としての編集を加えられたと思うのですが、展示プランはどのように進められたのでしょうか。

 まず、6章立ての展示構成ですが、そのベースはクラクフ展のものです。ナチスの支配に抵抗したポーランドの民衆を描いた「地獄」の章や、「連帯」運動と並走してつくった映画を紹介する「革命」、文芸作品における静けさやノスタルジーを表現した「(不)死」は、クラクフ展と同じテーマによる章立てです。それぞれの章のテーマに関連する作品の抜粋を上映したり、絵コンテや台本、衣装などの資料を展示する内容です。そこに私たちからリクエストして加えたのが、展示第1章の「子どもの神話」と、第3章の「新しい波」です。また、クラクフ展でも日本との関わりを示した展示品もありましたが、第6章「日本」としてワイダと日本の関係をひとつの章に独立させました。

──まず「子どもの神話」の内容から説明していただけますか。

 ポーランドは、18世紀の終わりから120年強の期間、自らの国をもつことができませんでした。ポーランド分割と呼ばれる状況下にあり、東はロシア、西はドイツ、南はオーストリア=ハンガリー帝国に支配されていたわけです。その時代のポーランド人のアイデンティティ──いまでいうところのリトアニアにも及ぶ地域の貴族たちの物語ですが──を問うた『パン・タデウシュ物語』という古典文学作品をワイダは映画化していますが、ポーランドの歴史に明るくなければ、ワイダがなぜその作品を映画化したのかが見えづらいと考え、少年ワイダが憧憬した第一次世界大戦以前のポーランドにまつわる「子どもの神話」という章を設けました。

「子どもの神話」の展示風景より

──「新しい波」とは「ヌーヴェル・ヴァーグ」ですね。

 1950年代から60年代にかけて、世界的に非常に大きなヌーヴェル・ヴァーグの同時発生が起きていました。そのひとつが「ポーランド派」でした。日本の映画ファンも反応する内容だと考え、『夜の終りに』などの作品を含むプランをクラクフチームに提案しました。それを承諾していただいたうえで、ワイダはその先にもずっと映画表現の文体の実験を続けていたので、虚構と現実を融合させて映画製作現場の裏側を描いた『すべて売り物』(1968)なども加えたプランを提案していただきました。

──「日本」の章に関しては、頻繁に来日されたワイダ監督と、映画を上映した岩波ホールの支配人である高野悦子さん(1929〜2013)との関係が欠かせないと思われます。

 ワイダ監督の初来日は1970年の大阪万博ですが、その際に能を鑑賞するなど、日本の伝統芸能にも色々と触れられたようです。それから1970年代の途中から、例えば『大理石の男』あたりから日本での配給作品が増えていきましたが、その中心となったのが、高野悦子さんを中心とする岩波ホールの活動でした。今回の回顧展では、岩波ホールに関する展示品として、 ワイダ監督作品の公開当時のポスターやパンフレットもご覧いただけます。高野さんとワイダ監督は生涯の同志でありましたし、高野さんが心配されていた戒厳令下のポーランドがどう報じられていたのかなどがわかるように、当時の新聞記事のスクラップなども展示に加えています。

──『ナスターシャ』(1994)は、ドストエフスキーの『白痴』を原作に、坂東玉三郎主演で描かれています。

 ドストエフスキーの『白痴』に基づく舞台劇を映画化した作品ですが、来日したときに玉三郎さんの舞台をご覧になって感激されて、玉三郎さんを主演にした舞台作品を考案したのが始まりです。展示室には、承諾をお引き受けしますと認めた玉三郎さんの達筆なお手紙を展示しています。この作品では玉三郎さんが二役を演じ、スカーフを翻してその役が切り替わる演出をされているのですが、それは日本で歌舞伎を見たことから着想した演出です。

「日本」の展示風景より
坂東玉三郎からワイダ宛の手紙

編集部

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