藤田嗣治を世界的な画家へと押し上げたものとは何か?

来年、生誕140年を迎える画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ)。数多の才能がひしめくパリで荒波に揉まれながら、藤田はどのようにして自身の画境を切り開いていったのか?

文=verde

藤田嗣治 マドレーヌの肖像 1932 紙に水彩、墨 34.5×33cm 個人蔵(エルサレム、イスラエル) © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2024 E5785

 20世紀、芸術の中心地であるパリで画壇での成功を掴み、日本人画家として初めて世界的に認められる存在となった藤田嗣治。幼少期から絵の道を志し、1913年に日本を離れてからの日々はまさに波乱万丈だった。数多の才能がひしめくパリで荒波に揉まれながら、藤田はどのようにして自身の画境を切り開いていったのか。今回は、SOMPO美術館で開催中の「藤田嗣治 7つの情熱」展に寄せ、藤田(FOUJITA)の前半生をたどることで、その答えに迫ってみたい。

エコール・ド・パリ──20世紀のパリに集った芸術家たち

 1870年代から1910年代にかけて、パリは「ベル・エポック」と呼ばれる文化の爛熟期を謳歌していた。文学(マラルメ)や演劇(サラ・ベルナール)、美術、音楽などあらゆるジャンルの才能の持ち主たちがパリに集まり、活躍した。とくに美術においては、印象派が伝統を重んじるアカデミスムに反旗を翻し独自のグループ展(印象派展)を開催したのを皮切りに、ポスト印象派、ナビ派など若い芸術家たちが伝統に囚われない「新しい表現」をそれぞれに追求するようになっていた。その様子は、芸術家たちを大いに惹き付けた。

 パリでは、ルーヴル美術館などで古くから積み重ねられた伝統や歴史を目にすることができるいっぽう、画廊に行けば最先端の表現に触れられる。参加費さえ払えば、誰もが自由に作品を発表できるアンデパンダン展もある。パリに身を置き、腕を磨くことで、自分もまた「発信者」の一人となれるのではないか。是非パリで成功のチャンスを掴みたい。そんな思いを胸に、フランス国内だけではなく世界各地から若い芸術家の卵たちが20世紀初頭のパリに集まっていた。

 後に「エコール・ド・パリ(パリ派)」と総称されることとなる彼らは、集合住宅兼アトリエやカフェで交流し、互いに切磋琢磨しながら、それぞれに自身の「表現」を磨いていった。ルーツも作風も異なる「仲間」の存在は、彼らにとっては大いなる刺激であり、時には新たな道を切り開くヒントをもたらしてくれた。

 例えば、モディリアーニの場合を見てみよう。イタリア出身の彼は、1908年、22歳のときにパリに出てきた。もともと彫刻家になることを夢見ていた彼は、パリでルーマニア出身の彫刻家ブランクーシと出会い、直彫りの指導を受けるようになる。故国ではミケランジェロらの伝統的な彫刻に親しみ憧れていたモディリアーニだったが、ブランクーシを通じて、アフリカの黒人彫刻の力強さを知り、感銘を受けた。さらにオセアニアの彫刻や古代ギリシャのカリアティード(女人像柱)からも影響を受け、引き伸ばした首と単純化したフォルムを持つ女性の頭部像や裸婦像を石でつくるようになる。1914年には経済的・身体的な負担から彫刻は断念せざるを得なくなるが、彫刻を通じて培った造形手法はそのまま絵画に転用され、「モディリアーニ」という無二の個性の礎となった。

(参考図版)アメデオ・モディリアーニ ジャンヌ・エビュテルヌの肖像 1919 メトロポリタン美術館(パブリックドメイン)
出典=メトロポリタン美術館ウェブサイト *展覧会には出品されていません

 モディリアーニ以外にも、シャガールやスーティンら多くの芸術家がそれぞれに独自の画境を切り開いた。とくにピカソやブラックが始め推進したキュビスム運動はローランサンら他の芸術家たちに多大な影響を与えるなど、1910年代のパリは前衛芸術の花盛りと言っても良かった。そして1913年、新たな潮流の真っ只中に一人の日本人が飛び込んでいく。藤田嗣治である。

編集部