20世紀初頭のパリには、多くの画家の卵たちが集まってきていた。後にエコール・ド・パリと総称される彼らの国籍はイタリアやスペインなど様々だが、そのなかの唯一の日本人が藤田嗣治(1886~1968)である。
藤田嗣治と言うと、まず連想されるのが独自の「乳白色」、そして「裸婦」のモチーフであろう。
彼は一体、どのようにして、この独自の画風、世界をつくり上げたのだろうか。
本稿では、2018年10月8日まで東京都美術館で、10月19日~12月16日に京都国立近代美術館にて開催される「没後50年 藤田嗣治展」の見どころとともに、その答えを探っていく。
①「乳白色の裸婦」——自分ならではの絵を求めて
藤田嗣治は1886年、東京で陸軍軍医の子として生まれた。幼い時から絵を描くことが好きで、中学生の頃には洋画家になること、そして油絵の本場であるフランスに留学するという夢を思い描くようになる。
藤田はまず、東京美術学校(現・東京藝術大学)の洋画科で学び、卒業から3年後の1913年夏、ついに念願のパリへと足を踏み入れる。26歳のときだった。
当時のパリのモンパルナスやモンマルトルには、ピカソ(スペイン)やモディリアーニ(イタリア)など、ヨーロッパ諸国から芸術家たちが集まり、それぞれに独自の画風を追求していた。
そのような若手芸術家たちとの交流を通じて藤田は大いに刺激され、同時に次のような問いに直面することになる。
この油絵の本場で、自分はどのような絵を描くべきか?
答えを求め、藤田はまずピカソのキュビスムや、モディリアーニの人物表現など、周囲の技法を真似た作品を描いてみた。また、日本の伝統モチーフである鶴を描いてみたりもした。
自分ならでは、自分にしか描けない絵とは、一体どのようなものか?
藤田は悩みに悩んだ。そして20年前後に、ひとつの答えにたどり着く。それがいまや藤田の代名詞となっている「乳白色の下地」の技法である。
この技法について藤田は秘密にしていた。しかし、最近の研究で、ベビーパウダーを白い画材と混ぜることで、半光沢の滑らかな質感や上品な乳白色を得ていたことがわかっている。また、この下地の滑らかさには、支持体となる布の目の細かさも影響してくるため、藤田はほとんどの作品において、キャンバスを自ら手作りしている。
そして、この「乳白色」を活かす題材として、彼が着目していたのが「裸婦」である。 実際に作品《タピスリーの裸婦》(1923)を見てみよう。
トーンの異なる白いシーツ、そしてエキゾチックな花柄の布の上で、主役たる裸婦の身体はほのかに輝いて見える。色数も最小限に抑えられており、緻密に描き込まれたピンクの花模様が画面にアクセントを添えるとともに、裸婦の肌の真珠のような滑らかさ、色合いをより強調してもいる。裸婦モチーフは西洋美術において伝統的な主題であるだけではない。当時、第一次大戦後のパリにおいては、フランスの再生と成長を象徴するものとして人気を集めていた。
25年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章を贈られ、藤田は一躍時代の寵児となった。
②繊細な線描
乳白色の他にもうひとつ、藤田の絵を特徴づけるものとして、線描が挙げられる。
裸婦や静物モチーフをくっきりと縁取る、細く流れるような輪郭線。また、画中の版画や布地の文様などの細部も、ひとつ一つを手で描き起こしていることは驚嘆すべきではないだろうか。
これらの線を藤田はどうやって得ていたのか。その答えは《自画像》(1929)のなかにある。
白紙を前に、藤田が右手に握っているのは穂先の細長い面相筆、視線をずらすと机の上には硯と墨が置かれている。どちらも日本画や水墨画で使われるものである。
そして、油彩画用の下地の上に、水性の墨で途切れることなく柔らかな線を引くことができたのは、先ほど述べたベビーパウダーが、表面を滑らかにしていたことによる。このような藤田の線描の技術は、40年にパリで制作された《争闘(猫)》でも活きている。
これまで紹介した作品をはじめ、藤田の作品の多くに登場する猫が、ここでは本能をむき出しにして争っている。一匹一匹が見せる多様な表情や姿態、ヒゲや毛先まで細かく描かれた柔らかそうな毛並みも印象的である。
画中に猫は14匹いるにも関わらず、雑然とした印象を受けないのも、藤田の技術の高さゆえであろう。猛々しさ、緊迫した空気がこの作品には閉じ込められている。あったはずの音も声も全て背後の闇に吸い取られてしまった。まるで動画を見ている途中で、停止ボタンを押した時、にも例えられるだろうか。
この絵が制作された当時のパリには、ドイツ軍が間近に迫っていた。藤田も絵の完成後はパリを離れ、日本に帰国する。そして、軍からの依頼で「作戦記録画」を手掛けていくが、それが後に藤田を追い詰めることになる。
③宗教画——フランス人レオナール・フジタ
45年の敗戦後、藤田は画壇から「戦争協力者」の烙印を押され、様々な誹謗中傷にさらされることとなった。
「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」。
藤田のこの言葉からは、失望と悔しさがにじみ出てくるかのようである。日本を出よう、と思ったのも当然だろう。日本(ここ)を出て、若い頃を過ごしたフランスへ、パリへ帰りたい。思いは日々強まっていった。
そして49年、ついに藤田は羽田から日本を去った。アメリカでの約1年の滞在を経て、懐かしいパリのモンマルトルへ。以後二度と日本の土を踏むことはなかった。
55年にはフランス国籍を取得、さらに59年にはカトリックの洗礼を受ける。こうして日本人「藤田嗣治」はフランス人「レオナール・フジタ」となった。そして、それから亡くなるまでの約10年間、彼は宗教画を中心に制作を続けていく。
作例として、《礼拝》(1962~63)を見てみよう。
画面中央に座る聖母が両手を広げ、修道士(修道女)の服装にそれぞれ身を包んだ藤田夫妻を祝福している。おかっぱ頭やロイド眼鏡といった特徴的な風貌がフードの下から覗くのがユーモラスであるが、すっかり白くなった髪や皺の寄った手は、パリ時代から再びこうして帰ってくるまでの時間の経過を思い起こさせる。背景には自然豊かなパリ郊外の風景が広がり、藤田の背後の高台には、この作品が制作されたヴィリエ=ル=バクルのアトリエ兼住居が立っているのが認められる。そして、夫妻の隣には、彼の晩年の作品に頻繁に登場する子供たちが寄り添っている。
宗教テーマ自体は、じつは20代でフランスに渡ったばかりの頃にも手掛けているが、積極的に取り組むのは洗礼を受けて以後であると指摘されている。
当時、すでに70歳を過ぎていた藤田が一番欲しかったものは「安らぎ」だったのではないだろうか。どうか、自分の残りの生が、そしてこの家での生活が穏やかで安らぎに満ちたものとなるように。
その後、藤田はランスに礼拝堂を建てる計画に取り掛かる。設計から内部装飾まですべてを自身で手掛けた礼拝堂は66年に完成。その2年後に藤田は亡くなる。
そしていま、彼はこの最後の作品である礼拝堂内の祭壇の下で眠っている。
油彩というフランドル発祥の技法に、日本画の技法を融合させた藤田は、海外に出て評価された最初の画家だった。名高い「乳白色の裸婦」は、彼の画業のほんの一部でしかない。
今回の展覧会では、東京美術学校の学生時代からパリ時代、戦争画、そして晩年にいたるまで、藤田の画業全体を見渡すことができる。
ぜひ一度足を運んで、彼のつくり出した世界に直に触れてみてほしい。