日本でも知名度が高まっている覆面アーティストのバンクシー。同時によく見かけるようになったのは、公式や本物と見分けがつかない非公式の作品やマーチャンダイジングなどの商品だ。「公式」と「非公式」がテレビや新聞で同列に報道されてメディアを席巻し合うさまは、ポストトゥルース時代を象徴する現象にも思える。
非公式展「The Art Of Banksy」は、2008年にバンクシーと決別した元マネージャーであるスティーヴ・ラザリデス氏の考案で始まったという。2016年に『タイムアウト・メルボルン』誌のインタビューで同氏は「バンクシーは(この展覧会を)クソ嫌っていると思う」とはっきり明言している。
確かにバンクシーの公式サイトを見ると「バンクシー非公式展」は「アーティストの合意なく勝手に開催されているもの」と抗議している。しかし“匿名アーティスト“という謎めいたイメージや人を喰ったような作品も少なくないせいか「とはいえ、バンクシーのことだから何か裏があるのでは?」「言葉通りには信じられない」という憶測や「そもそも違法グラフィティには著作権もないはず」という誤解も生じている(著作権に関する木村弁護士による解説記事はこちら)。こうした状況を、日本の現代アート界は、どう見ているのだろうか。
グラフィティやストリートアートはストリートで生きている(SNIPE1)
まず話を聞いたのは、90年代前半をニューヨークで過ごした後、世界各国で活動してきたグラフィティライターのSNIPE1。アンダーグラウンドシーンと現代アート界の両軸で“ストリートの視点“で作品を制作しているSNIPE1に、バンクシーをめぐる現象をどのように見ているのかを尋ねた。
「バンクシーの活動や作品は、既存のルールに挑戦するギリギリの表現であり、プロテストだと思っています。だから(第三者の手によって)美術館という、ある種守られたハコの中で見せる作品だったり、売り物として店頭に並べられたグッズは、もはやプロテストではなくなってるから、作品の核心部分は死んでるよね。ストリートアートやグラフィティはストリートで生きている。その前提を理解したうえで観に行くならいいのでは」。
「『法を超えた抗議活動は、民主主義からの逸脱ではなく、民主主義にとって必要不可欠なものである』と言ったのはハワード・ジンですが、多くの人が『社会のルールを守ることは大事』だと考えるいっぽうで、社会のあり方を問い直すには、ときにルールや法律を揺さぶる表現が必要になることも理解しているんじゃないかと思う。だからこそ、バンクシーにはオーディエンスがついてくるし、作品の価値も上がってきた。それは市民だけじゃなくて行政側も同じじゃないのかな。東京都は『落書きはいけません』と言いつつ、“バンクシーらしきネズミの作品“は撤去した。それは『行政のルールは絶対』ではなくて、あくまでひとつの基準に過ぎないことが証明されたわけです。つまり上辺だけの『民主主義』とか、ルールでがんじがらめの社会とか、すべてマネタイズしなきゃいけない資本主義とかに、みんな心底飽き飽きしてるってことなんじゃないか」。
「『バンクシー』という名前が一人歩きしている現状に、フリーライドして金儲けする人たちがいる。そのことに対して、バンクシーは怒るいっぽう、どこかで嘲笑っていると思う。まあ、こうなるよねって。金に目がくらんだ人たちは『自分が宣伝してやってる』くらいに思ってるんだろうし、知名度が上がって行く状況をバンクシー本人が望んでいるのかどうかは別として、結果的に利用している部分もある。でも例えばストリートのグラフィティみたいに、こんなにいいものがタダで観られる機会って、今の世の中では、どんどんなくなっていってる現実がある。本当にそれでいいのかって問題は別にあるよね」。
もしデュシャンが“シュレッダー事件“を知ったら快哉を叫んでいたはず。(小崎哲哉)
『現代アートとは何か』の著者でジャーナリストの小崎哲哉さんは、数年前に訪れたメルボルンでたまたま開催中だったバンクシーの非公式展に行き、30ドル(約2500円)という高額な入場料に驚いた経験を持つ。ただ「アートに資本主義が本格的に介入したのは今に始まった問題ではない」と指摘する。
「バンクシーはメインストリームのアートではないように見えますが、私はデュシャンのある面を意識的に踏襲しようとしていると思っています。とくに、アートにおける金、著作権、マーケットについてです。デュシャンはあるインタビューで、よく人から『10万ドル払ったら、作品つくってもらえますか』と聞かれることが嫌だったと話しています。もしそこに友情があって、しかも自由に創作させてくれるのなら引き受ける、と。彼は友人のブランクーシの作品をアメリカのコレクターに転売する仕事もしていますが、法外な値段を付けることはまったくありませんでした」。
「60年代、アート市場が高騰しはじめた頃、つまりアートに資本主義が本格的に介入しはじめたとき、デュシャンはそうした傾向にとても批判的でした。デュシャンにとってアートとは、自分の思考を自由に広げるためのものであって、“金儲けの道具“ではなかった。有名になってパリからニューヨークへ渡った後でさえ、図書館で司書として働いたり、フランス語の個人授業をしたりして、生活費を工面していました。デュシャンは今日のように、100億円もの価格でアート作品が売買されるようになる時代を予測していなかったかもしれません。バンクシーのことも知らずに亡くなっていますが、もし“シュレッダー事件“を知ったら快哉を叫んでいたと思いますね。そしてバンクシーは、おそらくデュシャンが遺したこの一言──『明日の偉大な芸術家は地下に潜るだろう』を座右の銘にしているんじゃないかと私は睨んでいます」。
マーケットそのものを作品としてつくる90年代に台頭した“現代美術らしい作家“(毛利嘉孝)
そのいっぽうで『バンクシー アートテロリスト』の著者であり、筆者とも長くバンクシー関連書籍を共訳してきた東京藝術大学大学院教授の毛利嘉孝教授は「近年のバンクシーにはスタンスにブレがあるのでは」と疑問を呈している。
「非公式展に関していえば、たとえ作家本人が『(自分の作品を勝手に)展示されたくない』と思っても、作品は所有者の権利で展示することができるし、美術作品には当然『見る権利』もあるわけです。これだけ世界的に有名になった作家だし、本人の意向で鑑賞が著しく制限されるというのは違うんじゃないか。もし作家本人が作品を買い戻すなら別ですけど、『そこまで管理したいなら、最初から作品を売るなよ』とも思います。『グロス・ドメスティック・プロダクト』(商標権争いから生まれた作品)以降、バンクシーのスタンスにはブレがある気がしますね」。
「バンクシーは、グラフィティというより、今となってはむしろ現代美術らしい作家だと言えます。それはアートマーケットそのものを作品として自らつくっていく作家たち“、例えば、ダミアン・ハーストやジェフ・クーンズ、日本だと村上隆の系譜にある」。
「いっぽうで『関係性の美学』以降の現代美術は、コミッションワークが多くて、マーケットに乗りにくく、お金にならない作品も多い。そのなかで、バンクシーにはまだ“売れる作品“がある。現代美術界では依然としてバンクシーが好かれない理由もここにあると思います」。
非公式も巻き込む構造が生む現象は大きな運動になるか回収されていくのか(卯城竜太)
バンクシーは「ペストコントロール」という代理組織を設立、同組織が作品の真贋鑑定を行ってオリジナル作品を管理している。しかし、非公式の展覧会や商品は世界各国で広がり「公式」を凌駕する勢いを見せている。そうした現象の構造そのものに着眼するのは、Chim↑Pomの卯城竜太さんだ。
「『バンクシー』は匿名の作家で、公式の声明や発表も断片的です。その結果、非公式展や非公認グッズというかたちで、バンクシーを解釈したり代理するさまざまな派閥やビジネスが広がっている状態ですが、そこでは派閥間の批判はありつつも、唯一バンクシー本人だけは“絶対的な中心”に立っている構造があります」。
「バンクシーがウォーホルやジョン・レノンとも違う点は、彼らは顔が見えるアーティストであり、その活動は権利保持団体やアート業界などによってある程度守られているため、良くも悪くも、バンクシーほど非公認の活動が、ここまで大々的には広がらなかったこと。この点に限って言えば、バンクシーはそうしたアーティストやポップスターという粋を越えていて、ちょっと極端に言うと、もはや構造的には宗教や信仰や教えに近い現象が生まれていると思います」。
「例えば、釈迦やキリストや孔子やソクラテスの教えを、実際に書籍などを通して広めたのは弟子だったり、その後は、本人に会ったこともない人たちの活動によるものですよね。カリスマが決定的な経典を書き残していなかったために、彼らの言葉は様々に解釈されまくって、たくさんの派閥ができた。つまり、伝達プロセスにおける『ある種の中心性の無さ』が、逆説的にカリスマを絶対的な中心とする大きな運動になって、世界へと広がりました」。
「もちろん、バンクシーの『公式』の活動を見ると、ブレないスタンスで作品を制作しながら活動を続けていて、そこでは、アーティストやポップスターとして、中央集権的に自らを管理できていると思います。でも『非公認』の動向は、もはや『公式』を凌駕しかねない勢いを持ってしまっている」。
「ただ、釈迦もキリストも孔子もソクラテスも、バンクシーのようなアクティヴィストであったと思うし、そんな現象を持つ構造で、世界各国で作品が巡回展示されるアーティストは過去にもいなかったので、それはそれで僕にはおもしろい現象だととらえています」。