機械生産によるプロダクトに温かみを反映させようとしたデザイナー
手造りのものが美しいからとて、そのままそれを機械にのせて量産することは馬鹿げている。手造りと、機械生産は異なっている手段であるから、それによって表現されている美は自ずと異なっている。手工芸は手造りの美しさを追求すべきで、プロダクト・デザインは機械生産の美しさを追求すべきである。但し、人間生活に係わりあるものから、美が生まれて来るということで、その美の因ってくるところは同じである──柳宗理(*1)
戦後日本を代表し世界的にも高い評価を受けているプロダクトデザイナーである柳宗理の「柳宗理デザイン 美との対話」展が島根県立美術館で3月23日まで行われている。この展覧会は柳の幅広いデザイン分野での仕事を、椅子や机などの家具、照明器具、食器、玩具、ポスター、さらには建築物の模型など600点以上の品々を使い総括するとともに、宗理が旅先などで集めた蒐集品や彼の民藝の関わりなど4つのセクションに分けて構成されている。加えてその多くがすでに製造が行われていないため、柳宗理ファンでなくともデザインやプロダクトが好きな方であるならばこの展示はとても貴重な体験となるはずだ。
今回の展示はここだけでの開催となり、残念ながらいまのところ巡回の予定はないという。なぜ島根での展示なのかというと、柳は島根出身の陶芸家である河井寬次郎が京都で開いた窯で黒土瓶というものをつくったことがあり、後年出雲市の出西窯でそれを復刻。またお隣の鳥取県でも民藝運動をすすめていた吉田璋也との関わりから、鳥取市の牛ノ戸焼窯において宗理によるディレクションの陶器を制作した。つまり柳と山陰とは陶芸を通じてもともと深い関わりがあったというわけだ。
柳が亡くなったのは2011年のクリスマスだったが、彼のアトリエはいまも都内に残されていて少し前にお邪魔したことがある。四谷の前川建築設計事務所の地下にあるそのコンパクトなアトリエは、亡くなってからすでに8年になるというのに、いまも柳がその場で日々作業をしているような状態に保たれていたのにまず驚かされた。机の上にはバウハウスの初代校長でもあったヴォルター・グロピウスの展示カタログや、家具や食器の型として使われた石膏模型などが置かれ、参考資料がぎっしりと詰まった書棚の上には国内や世界を旅し蒐集した玩具やお面や凧、民芸、貝殻や流木などが特に整理されるでもなく無造作に置かれていた。
床に目をやると、もともとは自身が仕事で使うためにつくったというエレファントスツールが色違いでスタッキングされ、ル・コルビュジエも愛用していた曲木技術で作られたトーネットの椅子、柳に多大なる影響を及ぼしたシャルロット・ペリアンの椅子、さらには円盤のような照明器具の試作品なども所狭しと置かれていた。雑然としながらもどこか温かみのあるその空間に浸りながら、「柳宗理という人は自然が作る形状などからインスピレーションを得て、思索を繰り返しながら、手を使っての作業に重きをおいていた職人的デザイナーであったのだなぁ」ということを実感してしまった次第だ。
柳宗理はもともと絵描き志望であったが、東京美術学校(現東京藝術大学)時代にバウハウスとル・コルビュジエのことを知ったことでデザインと建築への道へと大きく進路転換をする。卒業後に日本輸出工芸連合会に籍をおき、坂倉準三を介して商工省貿易局の招聘でル・コルビュジエの下で坂倉とともに働いていたペリアンが、日本でデザインの視察を行うために来日したのが1940年だったのだが、柳はなんと彼女の通訳兼ガイドとして日本国中を一年以上もいっしょに付いて回ることになる。その間、現場の職人たちとのペリアンの仕事の取り組み方、地方に残る民衆の暮らしから生まれた道具や民家などへの彼女の深い観察力を目の当たりにし、そのときの体験がその後の仕事にも深く影響を及ぼすことになっていく。
自身の家具を制作する際に日本の伝統を取り入れようとしていたペリアンは、当時の日本人が気にも止めないような日常的なものから優れた要素を汲み出すことができることを柳に実践的に教えた。そして、たんに海外のデザインの焼き直しではなく、真のオリジナリティのある工業デザインを追求するためになにを自分がやっていかなければならないかという啓示を受けた柳は、ペリアンの意思を引き継ぐかのようにその課題に挑んでいくことになる。奇しくもパリのフォンダシオン ルイ・ヴィトンでは、昨年秋から約5ヶ月間に渡ってペリアンの回顧展が行われていたが、同じ時期に日仏でふたりの活動を現代の目で見てもらうという展示が開催されたこと自体、このふたりの偶然とは思えないなにか運命的なつながりを感じてしまうのである。
さて、柳宗理は工業デザイナーとして登場した日本で最初の人物であったわけだが、実父であった柳宗悦が起こした民藝運動の影響も多かれ少なかれあったはずだ。若かった頃は宗悦の考え方に反発もしていたと言われているが、その背景には民藝論というのは本来民衆の生活のための日用品についての理論がベースになっていて、宗悦が好んだものも職人の手造りによるものが基本中の基本であった。しかしながらそのような手造りのものは実際には少数しか造りえず、機能的にも不便さを感じるものもままあり、広く一般的に使われるためにはどうしても「機械」での生産が必要となると、息子の宗理は早い段階から確信していたようなのだ。
宗悦の友人で民藝運動にも深く関り冒頭でも名前が出た河井寛次郎はこんな興味深いことを言っている。「いまの機械製品はまさしく民藝の正統を受け継いでいる子であり孫であることは言うまでもない。機械は人間の新しい手なのだ、足なのだ、われわれの手と足と何ら対立しない」(*2)と。その言葉通り、柳はこれからの民藝は機械生産によるプロダクトにその精神が息づいていくべきだと考え、用と美が結びついたものが真の工芸であることを自身のデザインに実践的に反映させていく。例えば、発売当時はまだ珍しかった色付けされてない真っ白な食器、イームズやアアルトらが開発を行った形成合板による曲げ木を作ったバタフライスツール、フォークやスプーンやキッチンツールなどで、それらのすべてに柳の機能美への徹底したこだわりが隅々まで生かされていたのである。
今回の島根での展示を見てあらためて確認できたことなのだが、冷たい製品になりがちな機械製品であっても機械的な冷たさが柳のプロダクトからは感じられないばかりか、そのどれもが使いやすくとても温かみのあるヒューマニスティックな側面を持っているということだった。そういう意味では、民藝が持っていた手作業時代のクラフトマンシップというものが柳のプロダクトにも確実に息づいているということになるだろう。
柳が機械での生産にもかかわらず手づくりの暖かさを内包させることができたのも、物をつくるとき設計図からではなく、手で触って感じる暖かさや目で見る美しさ、そして日々の用事を助けてくれる便利さということを念頭に置き、ゆっくりと時間をかけて自らの手によって試行錯誤をしていたからなのだろう。そういった意味では宗悦が推した民藝運動とはやはり本質的には結びついていたわけで、ただその生産のプロセスが新しいやり方に代わっただけとも言え、そこには柳宗理というオリジナリティにあふれたプロダクトデザイナーにしかできない物への高い美意識が一貫して感じられるのである。
*1──作品集『柳宗理 デザイン』(河出書房、1998年)の「柳宗理 デザイン考 - デザインと民芸」からの抜粋
*2──『YANAGI SORI DESIGN』(島根県立美術館、2020年)からの引用