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この春、ひとつの歴史ある美術館が、これまでの地に別れを告げ、新天地に旅立つ。その美術館とは、東京国立近代美術館工芸館。40年以上にわたり、国内外の工芸を見つめ、支え続けた美術館だ。現在、この東京で最後の展覧会「パッション20 今みておきたい工芸の想い」が開催されている。工芸における「パッション」とはいったいどのようなものなのだろうか──。
歴史ある館における、最後の展覧会
竹橋の東京国立近代美術館から上り坂を上がること約5分。赤いレンガ造のクラシカルな建物が見えてくる。東京国立近代美術館工芸館(以下、工芸館)だ。
工芸館の建物は、もともとは1910年、近衛師団司令部庁舎として建設されたものだ。イギリス積みの煉瓦造りでスレート葺きのゴシック様式。玄関上にはかわいらしい小さな八角形の搭屋も備えている。今年で竣工110年を迎える建物は陸軍技師、田村鎮の設計で建設された。
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旧庁舎は75年前、歴史の大きな舞台にもなった。1945年、8月14日の深夜から未明にかけ、戦争降伏を阻止するため、一部の陸軍将校と近衛師団参謀が起こしたクーデター未遂事件「宮城事件」がこの場所で起きたのだ。
一連の出来事は、戦後「日本のいちばん長い日」というタイトルで書籍化され、以降、2回にわたり映画化もされている。
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階段や天井から吊るされた照明などは、竣工時から変わっていないという。
その後しばらく建物は放置され、内部は荒れるに任されていた。保全の動きが出てきたのは、昭和40年代以降のこと。各所の働きかけにより、1972年にようやく国の重要文化財の指定を受けることとなった。
この重要文化財の指定を受け、建物の活用を目的として開館したのが、工芸館だ。東京国立近代美術館本館の設計者でもある、建築家・谷口吉郎の設計に基づき内部は改修され、1977年に開館。以降、国内外の工芸およびデザイン作品を、40年以上にわたり紹介してきた。
この工芸館で行われる最後の展覧会が、「パッション20」だ。
工芸における「パッション」を探る
工芸とパッション、いささか馴染みのない取り合わせだ。一般的に、工芸品が見るものに訴えかけてくるものは、技巧の巧みさや、手間のかかり方、素材そのものの美しさであることが多く、工芸家の「パッション」がにじみ出ているものは少ないからだ。
けれども、工芸家や工芸を取り巻く環境にパッションが存在しないわけではない。
それどころか、工芸の世界はパッションなくしては続けることができない、孤独で過酷な仕事である。
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「『緻密な作法は模写でなくして作家の熱と感情の表れ』という平田郷陽(1903〜1981)の言葉から、展覧会のタイトルを“パッション”としました」と、本展を企画した東京国立近代美術館主任研究員の今井陽子は語る。
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平田郷陽は、江戸時代の後期から明治時代にかけて製作された「生人形」の技法を学んだ人形作家だ。
平田の《桜梅の少将》(1936)は、歯まで彫り込み、眉にも毛をそなえた、いまにも動き出しそうな精緻な人形。
平田はこの生々しさも感じさせる人形で人気を集めていたが、戦後は作風を一新。《長閑》(1958)のように、女性の姿や子供の姿をデフォルメした、まったく異なる作風の人形を制作するようになった。
一度体得した技術をあえてなげうち、まったく作風が異なる作品を作り出そうとするのもまた、情熱がなければ決してできないことだ。
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平田のように工芸家たちは、作品とともに、情熱を感じさせる言葉や振る舞いを時折残している。
本展は、その工芸家たちの言葉や活動・出来事からキーセンテンスを20点抽出し、「日本人と『自然』」「オン・ステージ」「回点時代」「伝統⇔前衛」「工芸ラディカル」と銘打った5つのセクションで、原則的に時系列に沿って作品を紹介する。作品展示数は約200点にものぼる。
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本展の導入となる「日本人と『自然』」は、冒頭の平田郷陽の作品をはじめ、様々なかたちで自然と向き合った工芸作品を展示していく。
欧米で人気の金泥焼付を手掛けていた初代宮川香山(1842〜1916)は、国外への金の流出を懸念し、制作コスト減も兼ねて「高浮彫」の手法を編みだした。巣穴や桜の花弁、モズと鳩の細やかな描写はもちろんのこと、にらみ合うにらみ合うモズと鳩の表情は、まさに「超絶技巧」。
宮川香山は「どこまでも日本固有なものを保存したいが一念」というパッションで仕事に望んだと、後年語っている。
続く「オン・ステージ」のセクションでは、本展の目玉作品、鈴木長吉《十二の鷹》(1893)や、小名木陽一の《赤い手ぶくろ》(1976)を展示する。どちらも、博覧会やビエンナーレなど、世界の檜舞台で披露されることを意識した作品だ。
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《十二の鷹》は1893年、アメリカで開催されたシカゴ・コロンブス世界博覧会で発表されたもの。鷹を鑑賞する際の儀式を描いた、室町時代から続く画題「架鷹図」を立体に置き換えたもの。2019年に国の重要文化財に指定されてから、工芸館では初めての公開となる。
制作の全体指揮をとった鈴木長吉(1848〜1919)は、作品制作のため、鷹を実際に飼い、その習性や表情、骨格にいたるまでつぶさに研究を行い、3年の年月をかけ制作した。伝統技法に加え、制作には当時最先端技術であった電気メッキ技術も導入されていた可能性が、近年の調査で浮かび上がってきた。
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小名木陽一《赤い手ぶくろ》(1976)は、1976年の第8回ローザンヌ国際タピスリー・ビエンナーレの出品作だ。小名木は、「織」が持つ力強さ、しなやかさを全面に押し出した巨大手ぶくろで、工芸の可能性を世界に問いかけた。
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続く「回転時代」では、大正から昭和初期にかけて、工芸界を取り巻いた活発な動きを紹介している。
モダンを突き詰めようとする動きとともに、江戸時代、桃山時代へと工芸へ回帰する運動、そして「用の美」を追求する民藝運動も勃興するこの時代の工芸品は、並べると同時代のものとは思えないほどにバラエティ豊かなものばかりだ。
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これらの運動にひたむきに励んでいた工芸家たちは、作風は異なるものの、それぞれがお互いの動きに刺激を受け合っていたという。
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伝統にも、前衛にも、宿るパッション
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「伝統⇔前衛」のセクションでは、戦後から現代に至るまでの、作家たちの「パッション」が作り出した工芸品を紹介する。
1955年、国の文化財保護法に基づき、歴史上または芸術上、特に高い芸や技術を重要無形文化財とし、その技術を体得した個人を「重要無形文化財保持者」、いわゆる「人間国宝」と認定する制度が誕生した。この制度は、各地域の伝統に立脚する作り手にとって、大きな刺激となり、新しい創造性を引き出すこととなった。
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また、「荒涼とした時にこそ美しいものを届けたい」と願った芹沢銈介は、染め紙によるカレンダーで人々の日常を彩り、八木一夫らは、これまでの陶芸の枠にとらわれない造形表現をさぐり、前衛陶芸と呼ばれる作品を作り出す。それまでもてはやされていた「用の美」とはまったく異なる形状の作品は、しばしば「オブジェ焼き」や「いわゆるオブジェ」と批評家から評されることもあった。
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そして、最後のセクションとなるのが「工芸ラディカル」だ。
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四谷シモンは人形に、高橋禎彦はガラスに心惹かれ、作品づくりの道へ入っていった。留守玲は熔接を仕損じた残骸の山を目にし、心が震え制作を始めた。彼ら、彼女らは現在も多くのつくり手を悩ませる、工芸と美術、オブジェと器の間にある高い塀を越えていく。その原動力となるのはやはり、パッションにほかならないのだ。
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展示が終わり、出口のガラス扉に記されているのは「さらば。」の三文字。
たしかに、工芸館はこの場所では「さらば。」なのかもしれない。けれども、40年以上にわたって工芸の素晴らしさを伝え続けた、工芸館の“パッション”は、場所が変わっても途切れることはない。金沢の地で、夏にオープン予定の国立工芸館(通称)として、さらに新しい飛躍を遂げるはずだ。
これからの工芸館の挑戦や変化をしっかりと感じるためにも、いまの東京国立近代美術館 工芸館に足を運び、3月の会期終了までに、すべてを目に焼き付けておこう。