忘れられかけたバスキア
1988年の夏、当時ニューヨークに住んでいた僕は、27歳の若さで亡くなったジャン=ミシェル・バスキアの死を『New York Post』が報じた小さな記事で知った。その前年2月に亡くなったアンディ・ウォーホルのときは、同じ新聞の表紙に大々的に報じられていたのに比べずいぶんと控えめな扱いだったが、正直なところそのことにさほど驚きはしなかった。というのも、当時のニューヨークのアートシーンはジェフ・クーンズやピーター・ハリーたちによる「NEO GIO」と呼ばれていた“次世代”作品が席巻していて、80年代前半に活躍したバスキアの存在はすでに薄くなっていたこともあって、少し前までは時代の寵児と祭り上げられていたひとりの黒人アーティストを「27歳の若さでの死」と哀れむように、その死因を報じたに過ぎなかったのだ。
そして、彼が亡くなってから4年が経った1992年に、ホイットニー美術館のキュレーターだったリチャード・マーシャル(後にバスキア財団とオフィスをシェアしていた人でもある)が、同美術館において大規模な回顧展を企画し、その展覧会カタログにバスキアの絵画に対して、いままでになかった深い洞察と鋭い検証がなされた。それが契機となりバスキア作品は軒並み評価が高まっていったわけだが、その流れを受けて僕は東京でバスキア展を企画し、そのための準備として彼のことをもっと理解したいという一心で、生前のバスキアのことを知る人たちにインタビューを行っていったのだった。
バスキアがクラリネット奏者として参加していた「GRAY」のメンバーたち、初個展の機会を与えたアニナ・ノセイ、早い段階からバスキアの才能を高く評価していた編集者のグレン・オブライアン、ミュージシャンで俳優、そして画家でもあったジョン・ルーリー、バスキアをメジャーレベルに引き上げたメアリー・ブーンやブルーノ・ビショッフバーガーといったギャラリストたち、後に『バスキア』という作品で映画監督デビューを果たしたジュリアン・シュナーベル、ガールフレンドたちや父親のジェラードからも話を聞くことで、人々の記憶から薄れ始めていた生前のバスキアのリアルな姿を僕なりに浮かび上がらせてみたかったのだ。
バスキアが嫌った「黒人アーティスト」いうレッテル
彼らと話をしていくと、共通して語られることがいくつかあった。まずバスキアは自分を「黒人アーティスト」と呼ばれることを極端に嫌っていたということ、そしてアーティストとして有名になるというオブセッション(強迫観念)が人並み以上に強かったということだ。当時のニューヨークのアート界はいまよりもさらに白人男性で固められた世界で、彼の声に耳を傾けてくれる理解者は白人ばかりで彼自身そのことに疑問を持っていなく、加えて周囲も彼が黒人であることを意識していなかったというのだ。
しかしこれは、彼が黒い肌のアーティストであったがゆえに、黒人の音楽や文化や歴史、黒人選手が活躍するボクシングや野球をテーマにした作品をつくることができるというパラドックス(逆説)的な特権も持っていて、彼の題材の領域もかなり広い範囲に及んでいた。バスキアの絵はグラフィカルなイメージと断片的な文字がリズミカルに混在しており、時に一見すると関係なさそうな言葉が重なり合い暗号化されていて、そういった荒削りにも見える若きインテリジェンスが当時のアート界にとって刺激的だったのだ。
バスキアの作品を注意深く見ると、その多くが中心となるものを真ん中に置くという感覚が薄く、画面上でどの部分もわりと平等に取り扱われていることに気づく。また、イメージや文字が自由に散りばめられているのは、サイ・トゥオンブリーやフランツ・クラインから強い影響を受けていたと言われるバスキアが、ストリートのグラフィティ・アート的なアクションをキャンバス上に持ち込んでいたと考えていいのかもしれない。
前述したリチャード・マーシャルはバスキアの絵をこう語っている。「政治的、社会的、人種問題などいくつかの違ったテーマが、文字やシンボルによって暗号みたいに潜んでいるところがバスキアの作品の魅力だ。そのひとつずつに意味があり、それぞれをつなぎ合わせると、彼がただ闇雲にそういったシンボルを羅列していたのではなかったことがわかってくるはずだ。しかし、それでも空気をつかむ感じで決して晴れたように理解させてくれない。ワイルドな色でイメージも強いから表面的には強く見えるけれど、じつはとても詩的な奥深さがあるのだ」と。カートゥーンのようなイメージに言葉や記号が連鎖したようなバスキアの即興性の強い絵は、ひとりのアーティストの思考や意識の流れが反映されているかのようで、まるでパズルを解いていくように見るものを引き込むのである。
「王冠」の意味とウォーホルとの関係性
数ヶ月にも及んだ僕のインタビューを通して、バスキアの制作の具体的な仕方も知ることができた。スタジオでのバスキアはほぼ毎日ノンストップで絵を描いていて、壁にはつねに10作ほどが立てかけてあり数日間は寝ないで仕上げていたという。テレビは始終つけたままで、ステレオも大音量でジャズのレコードが鳴りっぱなし。チャーリー・パーカー、ケルアックやバロウズといったビート族から影響を受け、解剖図や歴史書を片手に直接キャンバスに描き写した。床に置いたキャンバスの上を素足で歩き回り、わりと大柄だった彼は、独特の姿勢で身体をつねに動かしながら即興的に大量の作品を生み出していったという。
そのように身の回りや日常の出来事、テレビのアニメや音楽をインスピレーションの源としながら、それを様々な角度から料理するように制作するのが彼のやり方だったわけだが、完成していた作品でさえも、数日後にはすべて塗り直されていたこともざらにあったという。
また、どうしても気になっていた「王冠」のシンボルがどこからきたのかも知ることができた。アメリカのテレビ番組『リトル・ラスカルズ』に出てくるバックウィートという黒人の男の子の「王冠」のようなファンキーな髪型が子供の頃からの大のお気に入りで(バスキアもその髪型そっくりだった)、影響を受けた絵は?と聞かれると「3〜4歳児が描くもの」と答えていたそうだ。アートに関する知識があふれるほどあったことを考えると、そのはぐらかし方はどこかウォーホルの影響を感じたりもする。
そのウォーホルとのことはここでも書いておく必要があるだろう。なぜなら彼との出会いこそが、バスキアにとってアーティストとしての先行きを決定づけることになったといえるからだ。
存在、生き方、考え方、スタイル、人脈などすべてにおいてバスキアの憧れだったウォーホルこそ、アート界の象徴的なキングととらえていた節もあるほどだ。1983年頃にウォーホルと知り合ったバスキアは、その数年後には共同で絵を制作するまで親しい間柄になっていたのだが、このことはバスキアにとっては大きな出来事だったに違いない。ゆえに、この二人の仲が暗礁に乗り上げたまま先にウォーホルは逝ってしまったことでバスキアは孤独感を深め、精神状態も不安定になり結果的に命を落とすことになった......。短略的に聞こえるかもしれないがこれはまぎれもない事実だろう。
白人至上主義の現代アート界のコアな部分にたったひとりで入り込み、若さと才能だけで独自のアートの領域を築いていったジャン=ミシェル・バスキア。結局、自身が心から待ち望んでいだアート界の王冠をかぶることになるのは、彼が亡くなってからかなりの年月が経ってからになってしまったというわけだ。