公共空間における展示のあり方。長谷川新が見た中崎透のプロジェクト「シュプールを追いかけて」

中崎透×札幌×スキー「シュプールを追いかけて」は「札幌国際芸術祭2017」のいちプロジェクトとして企画された。札幌におけるスキーの歴史に関する資料を、地下鉄大通駅とバスセンター前駅を結ぶ地下コンコースのギャラリー「500メートル美術館」にて展示。

文=長谷川新

展示風景 撮影=小牧寿里
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長谷川新 年間月評第8回 中崎透×札幌×スキー「シュプールを追いかけて」 鑑賞者であるほかない者たちのために

 大友良英率いる「バンドメンバー」たちによって組織された「札幌国際芸術祭2017」は、ひとえにフィッシュリ&ヴァイスの《事の次第》(1987)において表明された自由を謳歌するものであった。副題の英訳が示す通り、「ガラクタが星座になるとき(When

bits and pieces become asterisms)」の「とき」の全面化が奇貨である。こうした恒常的な準−革命状態──「全イベント化」「全ガラクタ化」── を志向する方向性とその達成を前にしていま一度考えるべきは、地方芸術祭を「地域アート」と雑駁にカテゴライズした上でコミュニケーションの問題へと回収してしまうことの不毛さである。一見すると誠実である芸術と社会の接続は、図らずも芸術と社会を一度分断した上で行われており、各々の立場や属性の硬直化を招いている。「札幌国際芸術祭」はこうした固定化に対しての拒絶であると同時に再−包摂にもなりうる。筆者は、こうした「地域アート」なる問題においては、例えば「オープンワールドな展覧会」の設計の問題としてとらえ直すことに可能性を見出す立場である。「見ようとしなければ見えず、聞こうとしなければ聞こえない」作品を配置することの是非は、端的に、そのような条件下にあることを鑑賞者に気付かせる設計の問題にすぎない。

展示風景 撮影=長谷川新

 前置きが長くなったが、中崎透を中心とするプロジェクト「シュプールを追いかけて」は、こうした展覧会設計を考えるうえでたいへん優れた展示であった。芸術祭の一部でありつつも独立したその展覧会は、「500メートル美術館」という特殊な空間において実施されている。地下鉄の駅と隣接した長く延びる通路の片側のディスプレイに、中崎はおびただしい数のスキー板を中心に、スキーに関連した人物の資料や、札幌オリンピック(1972)のポスターを並べていったのである。ここで筆者は本展のプロセスを詳述することはしない。この展覧会を優れたものにしているのは、中崎の入念なリサーチや地元の住民たちとの協働ではないからである。

展示風景 撮影=長谷川新

 本展では直線状に延びるその空間の性質上、通行人が自動的に鑑賞者へと変容する。というよりも、その通路を歩いているあいだ、人は鑑賞者であることを拒むことができない。これは実際かなり強制力のある空間である。「スキー板」という、似通っているものの、よく目を凝らすと一点一点異なる形状で、かつ各々の歴史的経緯を備えている存在を並べ切ったことで、本展はそれぞれの「鑑賞者」に対して── より正確にはそれぞれの「歩行スピード」に対して──異なる「見え」を提供することに成功している。立ち止まってじっくり鑑賞する人には、日本ではじめてスキーを伝えたレルヒ中佐の人生、札幌オリンピックにまつわる政治性、あるいはスキー板の造形の変遷について知ることができる興味深い展示となるであろうし、足早に通り過ぎる人には、スキー板の反復が小気味よいリズムとなる。ここで展示されている知識や労働の時間は「情報」と化すことなく、押しつけられることもない。公共空間における展示のひとつのあり方がそこにあった。