中尾拓哉 新人月評第12回 「TWS-Emerging 2016 [第6期]庄司朝美」展 24時間の出来事
二つに分かれた透明な支持体の上で、隔てられながらも重なり合おうとする男女。暗闇から突き出る拳、割れるガラス。上部には涙を流す女性、下部には横たわり内臓が透けた身体をもつ男性が描かれている。
TWS-Emerging 2016の最終回となる第6期として稲川江梨、赤池千怜、そして庄司朝美が展示を行った。それぞれに個別のテーマを掲げ、3つの個展が並存する。「夜のうちに」、庄司のスペースにはそう題され、絵画が大々的に展示された一室と会期中にも制作が行われる作業机の置かれた一室に分かれている。
作品は、透明アクリル板を支持体とし、夢の中で起きた出来事であるかのように、黒を基調にした、夜に潜む人間の暗がりを描いたものに見える。薄い支持体に重ねられたストロークによって、絵具が積み上げられ、描き出そうとする像の在り処へと向かい、掘り下げられていく。色、形、素材とあらゆる構成要素はつくり出された空間を確かめる手がかりとなるが、その絡まりは、必ずしも意図によるものではない。描いているものと描かれているものの微差が探索され、そこで未知のバランスが調停されようとしているのである。どこまでたどれるかは不明であるにせよ、それでも残された作品は現時点において描き手が入り込んだ領域に等しい。
作品は日付によって識別されているが、庄司はこれらを1日1枚のペースで描いたと言う。なるほど、そこには日付が記されている。しかし、それを追っていくと、数字が逆になっているものがあることに気づく。いや、実際にはすべての絵画は裏返された状態で展示されている。アクリル板の表面には鑑賞者の姿が反射しており、そこから透明なほんの数ミリの厚さを隔て、描き手が入り込んだ空間における物理的なプロセスの始点、絵画平面のもっとも奥にあるものを見ていたことになる。鑑賞者は絵画にかけられた時間の裏側に立っているのである。
それは、絵画の向きを逆さに見て抽象性を取り出させる驚きよりも、パレットにしていたガラスの裏側から絵具を見たある画家の気づきに近いのかもしれない。絵画に作者を超えた解釈を呼び込むことではなく、まるで消化器官を透かすように、物体の内部を晒すこと。とはいえ、終わりのない作品鑑賞の手がかりとなるのは、目の前にある作品に宿った論理性/非論理性であることに変わりはない。そうした結節点は表層に丸出しになっている場合と、深層にあり隠れている場合がある。しかし完成という状態もまた、長期的に見れば、句読点であるかのように、別のプロセスへの連続に他ならないであろう。庄司が自身の作業机とともに見せるストロークの裏側とは、そのいずれにも属さない、完成された作品の最中にある、もっとも薄い層なのである。
透ける身体とそれを覆う黒。庄司が入り込み、24時間をかけて描き出した夜の景色は、絵画の裏側であるところの、何も描かれていない朝の景色の向こう側にある。そこで、描き手が見た絵画空間と、鑑賞者が見る絵画空間は、朝から夜にかけて重なり合おうとするのだ。本来的に像を結ぶことのない、痕跡の束において。
(『美術手帖』2017年3月号「REVIEWS 10」より)