ヴェネチア・ビエンナーレでは毎回、企画展参加アーティスト部門と国別パビリオンの2部門で、「金獅子賞」が発表される。筆者は、2012年にダイムラー・コンテンポラリー・ベルリンで開催された「ドイツのミニマリズム 60年代2」展で、フランツ・エルハルト・ヴァルターの重要性をこれでもかと知らしめられ、以来継続的に彼の展示をリサーチしていた(近年、彼は回顧展が開催されるなど再評価が著しい)。それでもまさか今回、企画展参加アーティスト部門を受賞するとは思っていなかった。国別パビリオン部門を受賞したドイツ館のアンネ・イムホフともども、近年の、一過性にとどまらないパフォーマンス偏重傾向の、彫刻/パフォーマンス/作家/鑑賞者の関係性をアップデートしようとする意志を、感じさせるものだった。今回はここから記述を始めたいと思う。
はじめに断っておくと、今回の企画展のキュレーターであるクリスティーヌ・マセルに対して筆者は、憤りにも近い感情を覚えている。そのあまりにもナイーヴな姿勢に対しては正直閉口するほかない。わかりやすくテーマ別に区切られたセクション(「地球のパビリオン」「シャーマンのパビリオン」「色のパビリオン」……)、作品の単調な配置、あらかじめ設定されたプリミティヴで純粋なものへの依存、そしてアイロニーなく掲げられたタイトル「芸術万歳(Viva Arte Viva)」。こうしたフレームのなかでは、個々の作品の持つ柔軟さや多声性は捨象され、記号的に回収、消費されてしまう。
たとえば先述のヴァルターの作品も、壁に狭苦しく設置されていたために、鑑賞者と作品のパフォーマティブな関係性よりも、「鮮やかな色をした布」という素材に注意が向いてしまうように感じられた。これがよい方向へと駆動すればいいのだが(一例を挙げれば、センガ・ネングディと対比するだけで相当面白い見せ方が可能になると思う)、むしろ会場のほかのテキスタイルを用いた作品などに埋没する結果を招いてしまっている。
結果として、キキ・スミスのようにほとんど自力で──つまりキュレーションにおける様々なガイドラインからは半ば独立して──毅然と作品を提示している作家が、非常に印象に残った。
地球のパビリオンでの田中功起も、そのひとりである。筆者の印象では、同パビリオンにおけるアーティストたちには、(例えば「THE PLAY」のように)自分たちの身体を使って全力で世界を認識していくことが求められていたように感じたが(そこにはわかりやすいかたちでのテクノロジー批判も読み取れる)、田中はそういったキュレーションのフレームに対して真摯に応答しつつも、空間的には周りとほぼ完全に独立したインスタレーションを制作していた(余談になってしまうが、ミュンスター彫刻プロジェクトにおいては、彼は「ドクメンタ」の技術を導入しようとした、という風にも言えるかもしれない)。
とはいえここで、125人もの作家が参加する巨大な国際企画展において、展覧会のフレームにそもそも収まりきらない作品(パフォーマンスはもちろんだが、作家の制作の、そもそもの総体)を展示すること自体の困難さについて指摘しておく必要もあるだろう。
今回マセルは「パラレル・プロジェクト」というセクションを設け、オープンテーブルや本棚に加え、参加作家のスタジオや制作風景を記録した映像などを、閲覧できるようにした(もちろん映像はYouTubeで視聴可能だ)。こうした内部と外部を往復可能にする回路を展覧会内部に物理的にインストールする試み自体は興味深いものの、今回に限ればあまりうまく機能しているとは言えない。多くが裏目に出ていると言っても過言ではない企画展に対して、ドイツ館のアンネ・イムホフの展示はたいへん今日的な示唆にあふれたものだった。
イムホフの「ファウスト」は、近年のいわゆる「デリゲイティッド(委託された)・パフォーマンス」のなかでもひとつの達成と言えるだろう(「ミュンスター彫刻プロジェクト2017」においてクレア・ビショップが発表した優れた論考「Black Box, White Cube, Public Space」について考えるうえでも興味深く、何よりもそうした射程──ネオ・リベラリズムやデジタル技術による日常の再時間化、あるいは監視と自己の露出によって霧散した公共空間──にとどまらない面白さがある)。会場は全面ガラスで覆われ底上げされており、ガラス面の底の床には様々な物体が配置されている(もしかすると床への視座は、1993年に同じくドイツ館で金獅子賞を獲ったハンス・ハーケ《ゲルマニア》にもつながっているのかもしれない)。筆者は見ることが叶わなかったが、当初入口には2匹のドーベルマンが檻に入れられていたようだ(動物愛護団体の抗議があり撤収されたらしい)。ドイツ館のパフォーマンスを見るために連日長蛇の列ができていたことは、企画展において足早に展示を流し見する人の多かったことと、好対照だったと言っていいだろう。
パフォーマンスがされていない時間帯のドイツ館はもぬけの殻だったが、非常に秀逸なインスタレーションでもあり、鑑賞者のアテンションをうまく誘導する仕掛けに満ちて飽きさせなかった。加えて鑑賞者は、ここでいったいどのようなパフォーマンスが行われたのか/行われるのか、に対してかなり具体的に想起することが可能だ(それが実際に当たっているかどうかはここでは問題でない)。もちろんイムホフの作品は個展形式であり、ひとつのパビリオンだからこそ可能な展開ではある。しかし、パフォーマンスの時間とそうでない時間の、クリアな緩急のつけ方から企画展側が学び取れることは、少なくないように思われる。
最後に、同時期にヴェネチアのプラダ財団で開催されている展覧会「ボートは濡れている。船長は嘘をついた」についても、簡単に触れておきたい。本展は、ウド・キッテルマンによるキュレーション、トーマス・デマンドの写真、アレクサンダー・クルーゲの映画的作品、アンナ・フィーブロックによる空間演出が見事に「対話」した3人展だ(実際、彼らは古くから互いによき相談相手だったようだ)。展覧会全体のフレーミング/会場/個々の作品/ヴェネチアという街自体の、幾重にも渡るレイヤーのなかで虚構と現実を往復してみせていた。少なくとも筆者は、あそこまでデマンドの写真を効果的に見せている展覧会をほかに知らない。
プラダ財団主催というエコノミーが可能にしている側面も多分にあるであろうが、単一のテーマに回収させず、しかし全体として確固たる意志に貫かれた国際展をつくりあげるに際して、筆者に多くの示唆を与えてくれるものであった。
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2年に1度のヴェネチア・ビエンナーレ、5年に1度のドクメンタ、10年に1度のミュンスター彫刻プロジェクトが重なるメモリヤル・イヤーは、コンテンポラリー・アートの祝祭と呼べる向きもあるかもしれない。こうした「祝祭」の欧米偏重あるいはツーリズム的側面は10年前も20年前も繰り返し批判されてきたし、今回も例外ではない。これらの国際展を見た/見ていない、という経験の有無自体が単純な知識の所有へと転換し、なんらかの固定的関係性へと収斂するのも滑稽であるし、そうした知のあり方はむしろこれら国際展の理念に反するものであろう。逆に、根強い欧米中心主義、ヨーロッパ中心主義、国際語としての英語、グローバリゼーション、様々な社会的不均衡などが、いまもなお残存していること、むしろそれらにもとづいてシステムが駆動していることを繰り返し確認し、感覚を麻痺させないことは重要である。しかし同時に、一人ひとりがどのような作品を、どのような展覧会を、どのような実践を、公的機関であれ、民間であれ、オルタナティヴであれ、「同時代人」として実行していくのか、という知の体系を思考しなければならないと強く感じる。私たちは、肯定する技術と、批判する技術を、磨かなければならない。