「ミュンスター彫刻プロジェクト」は、1977年に始まり、以来10年おきに開催される壮大で慎ましい営みである。「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」をスタートするにあたって、ディレクターの北川フラムが参考にしたという逸話があるように、このプロジェクトは、街に作品を点在させることで展開される「芸術祭」の嚆矢として多方面に影響を与えている(しかし、「大地の芸術祭」が3年おきに開催されていることからもわかるとおり、「10年サイクル」というもっとも特徴的と言ってよい本プロジェクトの要素は、採用されていない)。
第1回よりキュレーターを務めているカスパー・クーニヒは、「ドクメンタと同じく5年サイクルにしてほしい」という市の要請をきっぱりと断って「10年サイクル」を守り抜いている。10年という期間は、彫刻と社会のどちらもが変化するのに必要な期間だと言える。どの10年にも負けないくらい、2008年から2017年の間の10年間は、劇的な変化が起こっている。1993年に発足したEUは分裂の危機に陥り、非物質的労働が拡大し、オンラインとオフラインの区別は曖昧になり、デモクラシーやパブリックの概念も大きく修正を迫られている。これらは社会の変化であると同時に、彫刻の変化だ。
2017年のミュンスター彫刻プロジェクトには、この10年の厚みを様々なかたちで引き受けた彫刻/プロジェクトと、キュラトリアルが出現している。大きく成功をおさめている作品もあれば(ジェレミー・デラーの《地球への伝達は、あなた自身を明らかにする》)、そうではないものもある(アレクサンドラ・ピリチをはじめ、いくつかの委託パフォーマンス作品/展示はまだまだ改善の余地があるように思う)。だが、少なくともそれぞれがいま、スカルプチャー/パブリック/デモクラシーという交錯点においてどのような実践が可能かを、おおらかに試行錯誤していることは確かだ。
自分たちの考える公共性の理念を「展覧会」あるいは「プロジェクト」として具現化、物質化、空間化していくということに、「ミュンスター彫刻プロジェクト」はあまりに自覚的だ。具体的な作品について、2つ取り上げようと思う。
ジャスティン・マザリーの作品は、芝生の上に置かれた彫刻だ。映像、LED、パフォーマンスと多種多様な「彫刻」が点在するミュンスター彫刻プロジェクトにおいて、この作品は古きよき抽象彫刻としてとどまっているように思われる。しかし立ち止まってよく目を凝らすと、そう簡単に言い切れないことに気づかされる。この彫刻には、抽象彫刻と言うにはいささか奇妙なところがあるのだ。例えば、なぜ、この作品は細くて短いたくさんの棒で支えられ、少し地面から浮いているのだろう(ちなみに解説文には「まるで空から降ってきたようだ」とあるが、それはさすがに言い過ぎだと思う)。どうしていくつかに分割され、隙間だらけなのだろう。
《ニーチェの岩》と名づけられたこの彫刻は、スイスに実在する「ニーチェの岩」の写真にもとづいてつくられている。従ってこれは(かつて野外彫刻で一世を風靡したような)抽象彫刻ではなく、歴然とした具象彫刻である。が、写真を経由し、繰り返し型取りされた結果、まるで画像の解像度が落ちるように、凸凹になっている点が彫刻と実物とで異なっている。哲学者・ニーチェがその岩の前を通りがかった際に「永劫回帰」を閃いたというエピソードは、ニーチェの岩が正しく「自然のモニュメント」であることを伝えている。
しかしジャスティンのそれは、いかにも陳腐で、軽く、地面からも浮いて、ミュンスターの芝生に存在しているいっぽうで、何かに反抗するわけでも、軽すぎるわけでも、どこかに移動できるわけでもなく、芝生の上にとどまらざるを得ない、と表現するのが正確である。自由と形容するには程遠い。そうした居心地の悪さと、中途半端さ、ニーチェとは異なる矮小なる「永劫回帰=繰り返し」が、パブリックな彫刻として提出されているのだ。
「彫刻」にまつわる「変化/問題系」と「社会」にまつわる「変化/問題系」をストレートに具現化したジャスティンとは異なる例として、マイケル・スミスの《アンダーグラウンドではない》を見てみよう。彼は今回プロジェクトに参加するにあたって、「タトゥーショップ」をつくることに決めた。それはもちろんひとつのインスタレーション作品としてであり、実際にタトゥーを入れてもらえる、言葉どおりの「タトゥーショップ」でもある。
アイシュ・エルケメンは「川を渡ることができる」作品《水の上》を発表しているが、「川を渡る」「タトゥーショップをつくる」という非常にシンプルなアイデアを「実現する」までの間に、どれだけの膨大な交渉があったのか、筆者には想像もつかない。しかし、そのプロセス自体が重要な意味を持つことは言うまでもない。そうしたプロセスに裏打ちされてパブリックがあり、デモクラシーがあり、そして何より重要なのは、あくまでも最後に提出されるのが、「シンプルなアイデアを具現化したシンプルなプロジェクト」でしかない、という点なのだ。
店の中には様々なタトゥーのデザイン・サンプル(これについては筆者はやや否定的な評価をしているが、デザインは地元のタトゥー・デザイナーだけでなく、今回のミュンスター彫刻プロジェクトに参加した作家たちによるものも多く含まれている)がディスプレイされており、その横に映像作品が1点展示されている。映像は、老人たちが楽しげにミュンスターの観光地を回る「PR動画」の様相を呈している。彼らは観光スポットを回り、彫刻作品を巡り、そしてタトゥーショップに入り、タトゥーを入れてもらう。タトゥーに対する偏見や社会的受容の変化(高齢者とユースカルチャーの和解もまた、近年の社会の変化のひとつと言えるかもしれない)、タトゥーを擁護する際に安易に歴史主義に走らず、さも当然のように、まるで他の彫刻作品と同じように「タトゥーショップがミュンスターにある」という描き方をしている点に惹きつけられた。タトゥーは古代から存在する歴史ある「文化」なのだ、という高尚な語りは、ある場合においてはむしろ事態を悪化させ、軋轢を生んだり、無関心を肥大させたりする。そうではなく、フラットに偏見を持たれている文化を扱うこと──その扱い方こそがパブリックの再定義を試みているように、筆者には思われた。残念ながらこの作品には、いくつか筆者には首肯し難い点が含まれているが、全体としては、今回の「ミュンスター彫刻プロジェクト」を代表するようなプロジェクトとなっていた。
個々の作家の実践の重要性はもとより、それをさらに魅力的なものにしているキュラトリアルについても触れておきたい。カタログにも、しっかりと思想が根を張っている。キュレーターのマリアンネ・ワーグナーは「マップとカタログを足して20ユーロを切ること。作品はすべて無料で見られるようにすること」がいかに重要で、そのために多大な時間を費やしたことを、熱っぽく語ってくれた。カタログは新聞紙や週刊誌のような紙質で、ザラザラとしていてとても軽く、持ち運びながら作品を鑑賞して回ることの負担を、できる限り低減するように設計されている。コストと重量を極力抑えた紙質であるために、カタログをたびたびめくったりしていると、指が黒ずんできてしまう。それくらい粗雑な仕様なのだ。だが、そうした一見するとネガティブな要素すら、マリアンネは全力で肯定していく。「鑑賞者の指がみんな黒くなっている」ことの素晴らしさに思い至らせる、ポジティブな語りがそこにはある。そうした語りは詭弁でもなんでもなく、周到に、徹底的に、公共性という理念から立ち上がっている。全作品のインスタレーション・ビューが掲載されたカタログを展覧会初日に間にあわせるべく、スタッフは、オープニング数日前までに作品の写真を撮り終えるべく奔走したと言う。結果として、いくつかの作品は搬入途中のままに掲載されている。しかし、きちんとした写真は後日、ゆっくりと、(例えばその作家の所属ギャラリーの専門フォトグラファーが)撮ればいい。優先順位と存在理由がどこまでも明確なのだ。
*
カッセル、ミュンスターについては、国際文化交流機関「ゲーテ・インスティトュート」のプログラムとして、訪問することができた。ゲーテ・インスティトュートの皆様に深く御礼を申し上げます。
*
第2回は「ドクメンタ14」を取り上げます。