李禹煥が語る「坂本龍一の音と音楽」

坂本龍一が敬愛するアーティストであり、『12』のアルバムジャケットも手掛けた李禹煥。2022年の夏に「李禹煥」展の関連プログラムとして行われた松井茂(詩人・情報科学芸術大学院大学[IAMAS]メディア表現研究科准教授)との対話のなかで、彼が語った「坂本龍一の音と音楽」についての一部を抜粋・編集しお届けする。

構成=牧信太郎

李禹煥 (C)getty images
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なんにもない部屋の「音」を録る

 坂本龍一さん自身と実際に知り合ったのは最近の話なのですが、彼の音楽は、映画音楽も含めて、昔から聴いていました。それであるとき、偶然に映画の『レヴェナント: 蘇えりし者』(音楽=坂本龍一、アルヴァ・ノト、2016)を見てたんですが、映画のなかで流れている風の音が「変な」ことに気づいたんです。これは本当の風の音なのか、そうじゃないのか。音がちょっと揺れたり、切れたり離れたり、それが面白いなと思っていたら、ほかのメディアで坂本さんが、まさにその「風の音」について話していて、やっぱりと思ったんです。

 それで、これもまた偶然なんですが、数年前にワタリウム美術館(東京)に寄ったんですね。そうしたら彼の展覧会(「坂本龍一 | 設置音楽展」、2017)をやっていて、そこで展覧会の感想をポストイットに書いて貼る企画をやっていたので「本当に面白い展覧会を見た」というふうなことを一言だけ書いて貼っていったんですよ。多くの人がコメントしていたので、僕のをよく見つけたなと思うんですが、そのあとスタッフを通して彼から連絡がきて、そのあと親しくなっていったんですね。

 同時に、彼が昔から「もの派」に関心があって、石でガラスを割った僕の作品《現象と知覚 B》(1968)にも、様々なメディアで言及している。そこで、ガラスの割れる音や、シーンとしていて何も鳴っていない時間の音、作品にまつわる様々な現象について話していて、ああ、やっぱ面白いひとだなと思って。それで彼に、僕の展覧会(​​「Inhabiting time」展、ポンピドゥー・センター・メッス、2019)のときに、なにかひとつやってもらえないだろうかと、「展示会場に流す音」の制作を頼んだんです。

 またその頃、彼が家に遊びに来たときの話ですが、うちにお茶室があって、そこはほとんど音がない部屋なんですが、「音のないところの音を録る」と言って、彼がそこにマイクを設置してね。「そこで何が録れるんだ」って言ったら、「いや、録れないかもしれないけれども、録れるかもしれない」という妙なことを言って、2時間ぐらいそのままにしてましたね。「どんなものが録れたかな」と言いながら彼は帰っていったけれども、たぶんなにも録れてないんじゃないかなと思うんだけれど(笑)。しかし、そういうがらんとした空間で音を録りたくなるという、その姿というか、その発想が、僕はすごく面白いと思うんですよね。

国立新美術館「李禹煥」の展示風景より、手前が《現象と知覚B 改題 関係項》(1968/2022)

人間に作用する「音」、その圧倒的な存在

 そこで彼が何を感じているのか、それはとても繊細で微妙なことなんだけれども、僕は人間の最も深いところに届いたりするものは、 やっぱり「音」なんじゃないかと、そういう気がするんです。これは物理学でも、音の波長の問題とか、また音律や音感と人間の関係について議論されていることを、僕も少しは知っていますが、「音」というものには、あらゆる生物が通じ合えるような、共通項のようなエレメントがあるんじゃないかと思うんですね。

 そういう意味でも、僕のなかでは、音や音楽の存在は、絶えず気になっているものです。例えば、原始的な音というか、細かい音というか、それを無限に縮めたり、遮断していくことで、ほとんど「音」というものがわからなくなる。いわゆる沈黙=何も鳴らない、ということですが、そういう真空空間、沈黙空間というのは、現実的には存在しないし、それがどういうものなのかは、誰も分からないと思いますが、それを想像することはできるわけですね。その抽象性が「音」の面白いところでもある。

 考えてみると、ほかの音が鳴らないということを前提にして、始まるのが「音楽」なんですね。だからそれが始まる前と終わった後というのは、沈黙というか「音がない」ということが前提だと思うんです。もちろん現代音楽では、その沈黙のあいだに別の音を挿入することによって、その前後をつなぎ合わせて「音楽」にするという試みもありますが。でも普通に考えると、オーケストラだったら、それが始まる前に音はない、終わった後も音がないっていうことが、一応前提になっている。沈黙と音との関係のあいだに「音楽」があるという感じかもしれないですね。

 いずれにしても、人間のいちばん深いところと自然とのつながりのなかで、それを通過、または往来していく存在として、「音」や「音楽」みたいなものが、僕のなかで絶えず引っかかっている。ある種のロマン派的な音楽は、それを人間の都合のいいように、もっと英雄的にきれいに仕上げ、現代音楽では、雑音のようなものを無限に鳴らしていく人や、自然のいろいろな風や波を音に変換していく作曲家がいます。いろんな音楽や音がありますが、どんなものでも、人間に作用する音の存在、または音の影響というものは、圧倒的なものなので、そういう意味で、僕は音や音楽へのコンプレックスがすごくある。

坂本龍一の「音」に対する根源的な欲望

 とにかく僕は、自分ではできない分だけ、音楽に対してものすごく憧れがあって、音の持っている響きというか、「震え」を持って、何かが伝わってくるようなことは、視覚ではとてもできない。視覚というのは、どうしてもある種の具体性を帯びるので。例えば、小鳥が飛んでいる、風が吹いている、木が揺れるとか、自然に暮らしているなかでも、いろんな音が鳴っている。同時に、なにも鳴っていないのに、鳴っているような気がしたりもする。こういう様々な「音の現象」がありますが、その圧倒的に高度な抽象性というのは、人間のかなり奥深いところに届くものだと思います。それは「魂」なのか、なんなのかわからないんですが、人間を超えた何かを通過していくようなものとして「音」は存在している。そして坂本さんの音楽を聴くと、「音」のそのような部分に触れたい、という願望が彼にはあるんじゃないかと、僕は思うんです。

 最近は坂本さんとは会っていないんですが、いま癌と闘っている彼のインタビューを読むと、胸が詰まって、本当にもう、言葉が出ないんですが......。それでも彼は絶えず、何かを聴いている、何かを聴こうとしている、それが僕には伝わってくる。ものすごく切羽詰まりながら、人間やそういうものをはるかに超えて、あらゆる生物や、ある面では無機物までも連なった、何かを「音」を拡げたい、拾い上げたい、それをつなげたい、という彼の願望みたいなものが、僕にはすごく面白いし、もうそれは偉大な気がしてしょうがない。