李禹煥(リー・ウーファン)(1936~)は1960年代後半から「もの派」の中心的な存在として活動してきた。木や石のような自然物と、鉄板のような人工物を組み合わせて関係性を提示する作品や、空間と余白の広がりを意識させる絵画、そして多くの著作によっても知られている。
2011年にニューヨークのソロモン R. グッゲンハイム美術館で開催された「李禹煥:MARKING INFINITY」展に先立って収録された本インタビューは、60年代後半から現在までの作品について回顧するものとなっている。その後、2014年にはヴェルサイユ宮殿で、19年にはポンピドゥー・センター・メッスで個展を開催し、ディア・ビーコン(ニューヨーク)には恒久設置の展示室が設けられるなど、今日に至るまで活躍し続ける作家の語る制作の移り変わりに注目したい。
重要なのは「場」が主人公であること。場をつくるのではなく、再提示する。
アーティスト、哲学者、そして詩人としても知られ、国際的に活動を続ける李禹煥。今年(2011年)6月にニューヨーク、グッゲンハイム美術館にて40年以上にわたる作家活動を紹介する大規模回顧展を控える李に、話を聞いた。
どう問題を提起し、戦うのか
──1960年代から現在に至る、作品やキャリアを見るときに、過去と現在をつなぐ直線状の時間の流れと考えるよりは、知覚更新のなかから発生する「持続性」の経過が強く感じられると考えています。この「持続」ということについてどう思われるか、初めにお聞きしたいと思います。
李 たしかに、自分の仕事の様々な変化のなかに、変わらない大きなモチーフの持続性を感じることはあります。それはある程度時間が経ったからこそ言えることで、振り返ってみて初めて、わかってくることです。そこから今度は前を向いて、自分がどう進んでいけるのか、変えていけるのか、ということを考えなければいけない。
まず、何が持続を可能にしているのか、という問題がありますよね。僕が積極的な作家活動を始めたのは1960年代後半でしたが、韓国から来日したころの僕は、絶えず共同体に溶け込めなかったあぶれもの、一種のマイノリティーだった。その後さらに遠い場所を求めてヨーロッパやアメリカにも足を延ばして作品を発表し、常にさまよい続けている状況で、外との対話や接触を繰り返すことで、自分を新鮮にしていくという生き方をしてきた。そこで持続性が育ったと思います。ひとつの場所でじっとしていられず、常に変化するなかで自分自身の問題として、「出会い」という言葉がふくらみ、「出会い」という概念が作家としての持続性を持ったのではないでしょうか。
──なるほど。とくに去年から今年にかけて、直島に個人美術館である李禹煥美術館(*1)がオープンし、今年6月にはグッゲンハイム美術館での回顧展(*2)が控えるなど、大きな活動が増えてきているので、最新の活動の中での問題意識についてもお聞きしたいと思います。グッゲンハイムの回顧展に向けて、キュレーターのアレクサンドラ・モンロー(*3)氏とのお仕事はいかがでしょうか?
李 アレクサンドラ・モンローというキュレーターは日本で勉強した経緯もあるのですが、そこにあるイマジネーションを省いて、もっとダイレクトに再構築したいという考えがあるということを、この一年半、共に仕事をしてきて感じました。様々な文化や地域によって感じ方や理解の仕方の違いがあって、僕がどのような文化形態が来ても耐えられるか、試されるという面でも大変面白い、いいチャンスだなと思っています。
僕はこれまでもヨーロッパを中心に、大規模な展覧会を行ってきましたが、各展覧会のたびに、自分を見直す、反省することをやってきたつもりです。今回は、おおまかな意味でヨーロッパ的、アメリカ的モダニズムに対する批判がまずある。同時に、うっかりするとついてまわるアジア人であることへのオリエンタリズムに対する批判があります。僕はアジア人であることは否定できないけれども、それだけではなく、もっと違うスタンスで見られるように距離感を示すことができるかどうか。さらに、僕自身の問題提起ができるのかどうかということ、その3つが試されていると思っています。
──モダニズム、オリエンタリズム、そして自分、という3つの戦いがあるということでしょうか。