『美術手帖』坂本龍一特集、6年後の編集後記──『async』と『12』から「坂本龍一」を考える

音楽家ではなく、美術家としての坂本龍一に迫った、2017年の『美術手帖』の坂本龍一特集。その企画に携わり、インタビュアーも務めた詩人で研究者の松井茂と、特集企画の担当編集者であった牧信太郎が、6年前に坂本龍一特集をつくりながら考えたこと、そして新しいアルバム『12』を聴きながら考えたことを語る。

構成=近江ひかり

『美術手帖』(2017年5月号)の「坂本龍一」特集
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美術家としての「坂本龍一」をどう描くか

 雑誌『美術手帖』での「坂本龍一」特集は2017年5月号だったので、もう6年前ですね。アルバム『async』の発売と「坂本龍一 | 設置音楽」展(ワタリウム美術館)にあわせての特集企画だったのですが、美術メディアの切り口で、「坂本龍一」特集をどうつくるかを考えているなかで、松井さんに企画のご協力やインタビュアーをお願いしました。

松井 僕の世代(1975年生まれ)は、1980年代後半から90年代前半に中高生でしたが、文化的なことに関心のある人は大体、坂本さんの活動を追っていたんじゃないですか? 僕の場合、冷戦が終結して、「これがいまなんだ」と思いながらワールドミュージックを主題にしたアルバム『Beauty』(1989)を聴いた覚えがあるし、その前のアルバムは『Neo Geo』(1987)。それで「ネオ・ジオってなんだ?」と思って調べると、現代美術の様式なのか、となる。つまり、坂本さんの音楽を入口に、哲学、思想、芸術に接してきたわけですね。だから最初に特集の相談をうけたときは、「『美術手帖』で坂本龍一特集?!」と驚きましたが、すこし冷静に考えれば、芸術に関係する自分の現在に接続する道筋を振り返る、良い機会になるのではないかと期待を持ちました。

 僕は松井さんより少し年下(1978年生まれ)ですが、YMOや坂本さんの音楽を同時代的に聴いていたというより、大学時代に『音を視る、時を聴く哲学講義』(大森荘蔵 / 坂本龍一=著、朝日出版社、1982年)や『EV. café: 超進化論』(村上龍 / 坂本龍一=著、講談社、1985年)を後追いで読んでいて、本や雑誌での坂本さんの発言を窓口に、音楽、映画、哲学、科学やメディア・アートなどのさまざまな表現や作家を知っていったという感じですね。坂本さんからジョン・ケージやフルクサスを知って「こんな人がいるのか!」と思って、現代音楽を深堀りしていった記憶があります。

松井 僕らの世代にとっては、坂本さんはそういう過去から現代までの多様な表現を知る窓口のような存在でしたね。

 そうなんですよね。そこで、特集企画にあたって最初に考えていたのは、浅田彰さんが言うような「様々な音楽を高精度でシミュレートする音楽機械」としての坂本龍一、メディアに出て「パフォーマティヴ」に振る舞う坂本龍一、そして美術館などで「空間芸術」を発表する坂本龍一など、その多様すぎる活動に通底するものを見つけることでした。無理につなげる必要はないにしても、なにか特集の核になるものをつくりたかった。そこで松井さんと何度かお話するなかで、「メディア・アート」ならぬ「メディア・パフォーマンス」というキーワードを出してくれました。

松井 「メディア・アート」という言葉をどうとらえるかですが、この言葉が指し示す現象は、曖昧ですよね。ポップ・アートやコンセプチュアル・アートとは次元が違う。そこで、これは僕の自己主張でもありましたが、坂本さんの特集を通じて「メディア・パフォーマンス」という言葉を積極的に推してみたところはあります。元来、音楽や美術といった分野は、支持体か制作環境に由来して区別されています。コンピュータ・メディアを使うことが一般化した現在、音楽と美術の区別も意味が薄れた。そして映像にしてもサウンドインスタレーションにしても、視聴覚に作用する表現には、プロセスが伴うので、ほぼあらゆる表現が「パフォーマンス」になっていくわけです。そういう視点で振り返ると、坂本さんの活動は、極初期から最近の配信にいたるまで、「メディア・パフォーマンス」の真骨頂だと言える。

 そこで、『美術手帖』で坂本さんを語ることを通じて、アートのポスト・メディア性を考えることができると思ったわけです。坂本さんご自身、ソロ活動が本格化した1984年は「パフォーマンス元年」で、単なる演奏とかライブとも違う性格の表現を意識するような契機だったそうです。音楽と美術の変化、その交差点を意識する意味でも、音楽家であると同時に「美術家・坂本龍一」の特集ができそうだと一緒に準備しましたよね。

『美術手帖』(2017年5月号)の「坂本龍一」特集より

 「メディア・パフォーマンス」という概念を適用することで、YMOを含む音楽家、そして美術家としての坂本さんの活動を包括的に語ることができると思いました。実際特集のなかでは坂本さんの年表とともに、「YMO」「ALL STAR VIDEO」「TV WAR」「LIFE」や美術館でのインスタレーションの作品群を、「メディア・パフォーマンス」をキーワードに振り返る記事もつくりました。

松井 自ら望んでと言うわけでもないと思いますが、坂本さんはマス・メディアを表現の場としてきたこともあって、新しいメディアやテクノロジーを利用する機会に恵まれていたと思います。90年代から取り組んできた配信にしてもそうですが、既存の方法にこだわらない、柔軟な態度は注目されるべきことですね。

 6年前は、松井さんと一緒にニューヨークの坂本さんのスタジオ兼ご自宅にうかがって、その特集企画の話をしつつ、体調の悪いなか、数日間長い時間インタビューにお付き合い頂いたのですが、『async』の話はもちろんのこと、過去から現在まで映画や美術、文学など幅広い表現領域にまたがってお話をお伺いできました。編集部内でも世代によっては「坂本龍一=活動家、有名人」という印象が強くて、坂本さんに興味がなさそうな人もいましたが(笑)、校了前に特集の記事のゲラを回し読みしているときに、坂本さんの美術を含む興味や知識の射程の広さにみんなびっくりしてましたね。

松井 今回公開された2017年のインタビューは、ニュースソースになりやすい、坂本さんの社会的活動しかしらない若い世代や、美術にしか興味をもたなかった読者にもリーチできるものになっていたのかもしれないですね。坂本さん自身も、高校時代は熱心な『美術手帖』の読者であったことを話していますが、すこし、その時代の高松次郎や、もの派と共振するタイミングが、『async』の制作にリンクしていたようで、なんだか良いタイミングでお話を伺う機会になった気がしますね。

 じつはこの特集のAmazonのレビューで「新しい事を言ってるようで昔聞いた事のあるような話のような気がする」というのがあるのですが、半分あたってて半分間違っていると思っています(笑)。1980年代からある坂本さんの「音楽そのものへの問い」と、2015年以降の変化のなかにある坂本さんの「新しい音楽への態度」が見え隠れしてて、過去と現在が渾然一体になっているようなインタビューと言えるのではないかなと思いました。

「パフォーマンス」の記録としての『async』と『12』

 ニューヨークでのインタビュー前に『async』を「5.1chのサラウンドで聴いてほしい」と坂本さんから連絡をいただき、avexにある試聴室にふたりでうかがいましたね。聴取環境に対する強いこだわりを感じました。そして実際に聴いてみたら、思っていた以上に、いわゆる「音楽」ではなく、「音」そのものを聴かせる作品だった。本作を聴いて戸惑った人も多いのではないかと思いますが、松井さんはどう感じましたか?

松井 僕はぶっちゃけ「暗い」と思ったんです。黙示録のような印象を受けました。一般の聴衆に聴かれることを放棄している、と表現するのは言い過ぎかもしれませんけど。さらに言えば、「非同期」というコンセプト自体は、坂本さんが新たにつくり出したものでもないし、「ネオ・ジオ」の頃のように、「これからの新しい音楽だ!」みたいなことではないですよね。坂本龍一の「いま」として、同時代に対してずらしてきた印象を受けました。もうすこし深読みすると、現代への「抵抗」ですよね。最初は暗い気持ちで聴いたけど、同語反復になりますが、新しいことをするのとは異なるかたちで現在に向き合う方法論だと思いました。少し時間が経って、いまはそんなふうに理解しています。

アルバム『async』の表紙

 坂本さんがインタビューでも『async』について「ひとつの時間ではなく、複数の時間が同時に進行しているような音楽はできないか」と言っていますが、それは同質性や同期性を求めすぎる今の社会にとって重要なメッセージのように思えました。それぞれの音はそれぞれの時間で存在しているのになぜか全体として成立している「非同期性」は、「多様性」が叫ばれつつ「同質化」が求められる現在の社会にとっても示唆に富んだものなのかなと。

松井 今回のアルバム『12』はどう思います?

 『12』は『async』の流れにあるものだと思いました。特集でのインタビューに「あるがままのS(サウンド)とN(ノイズ)にM(ミュージック)を求めて」というタイトルを松井さんが付けましたが、これ自体は『async』のことを指していますが、それが『12』にも引き継がれている。これは坂本さんのなかに続く、音楽家としての問いのひとつではないかと思いますし、その試みが6年前から続いているんだと感じました。音やノイズのなかに「音楽」を聴き出す、我々の耳が問われているというか。

松井 『async』の流れに今回のアルバム『12』も位置付けられるというのは同感です。6年前にスタジオに伺った際に、結局自宅のモニタースピーカーで聴くのがいちばんいいと話していましたよね。「設置音楽」展も、制作環境と同じ状況で聴くことを重視した展示でした。コロナ禍を過ごしていると、自宅のように、という選択、これもひとつの主張のように振り返ってしまいます。コンサートに背を向けるような態度というか、『async』と『12』に共通するのは、「いま、音を出してます」という状況を聴かせる態度ですね。

 『12』に関していうと、「日記」や「スケッチ」のように制作した、というのが興味深く感じました。アーティストのみなさんもコロナ禍では自宅にこもって制作することが多かったと思いますが、それらは「作品」として発表するためにつくったというより「本当に自分が愛情を注げるもの」の日々の記録のようなもので、結果的にそれが今の段階で発表されている。その意味で、「日記」のように生まれ出る表現は、作家の本音みたいなものが垣間見えるような気がします。

松井 日記といえば、作曲家でピアニストの高橋悠治さんが「水牛楽団」の活動のなかで、1980年代に発行していた『水牛通信』という月刊誌があって、YMOを終えた時期、1984、85年に、坂本さんが「スター日記」という連載を寄稿していたことがあります。いま読むととても面白いんですが、実際ただの日記なんですよね。84年に発売されたアルバム『音楽図鑑』のリマスター版が、2015年に発売されました。2枚組になったんですが、その時は展開させなかった、言わば未完成だったり、当時は発表を控えた音源が収録されています。これがやはりスタジオワークした日付のタイトルで、『12』の曲名を見た際に思い出しました。でもって、前述の日記と重ねて聴けるところもあって、いわゆる完成させる行為というよりも、ここにも行為遂行的な、「パフォーマティヴ」な態度が感じられて興味深いです。また2000年代後半のツアーの際に、日付をタイトルにしてコンサートの音源をほぼそのまま聴けるようにしていますね。9.11とか、3.11といった日付を経ている21世紀においては、作品にしても社会的なメッセージにしても、日付と行為の接点をメッセージとするような意識が強まっているのかもしれません。

アルバム『12』の表紙

 『新潮』での連載も「日記」でしたもんね。今回の『12』のなかには演奏中の坂本さんの息遣いもそのまま録音されています。

松井 ひとつの完成した作品を目指すとか、すでに存在する楽譜をなぞるように音を出していると考えるよりも、いまという状況におけるパフォーマンスの記録としてとらえるべきなんだろう、と思うんですよね。『12』のなかには、もちろん構成されている曲があります。正直なところ、思ったよりも整った楽曲なんですが、実際にそう聴こえるのは、コード進行のような法則があるからなんだけれど、即興的なパフォーマンスかも知れない。むしろそういうことなんだ、と僕は聴いてます。わかりにくいことを言ってるかもしれませんが、作曲されたものを演奏しているのではなく、どの音源も、パフォーマンスの痕跡でしかない、そこからとらえてみたいですよね。

 日付という意味で、坂本さんとも話をしたことがある、河原温の「Date Painting」シリーズがあります。もちろんこれはコンセプチュアル・アートとして、結果がわかっている作品です。しかし、実際に1枚ずつ描かれたパフォーマンスの痕跡で、それが繰り返されたものでもあります。『12』から河原温の作品を、ある状況におけるパフォーマンスの記録としてとらえ直す契機になるんじゃないでしょうか。画一化された作品として考えるのは早計で、『12』に坂本さんの文字通り息遣いが録音されていますが、同じことが「Date Painting」にも言えるわけです。

作家の「レイト・スタイル」と存在への根源的な問い

 坂本さんの活動や作品の変遷をあらためて振り返りながら、今回のアルバムを聴いて、作家や音楽家が歳を重ねることで変わるもの・変わらないものとは何かが気になりました。

松井 エドワード・サイードに『晩年のスタイル』(岩波書店、2017)​​という本があります。晩年というか、「レイト(遅れてきた/晩年の)スタイル」という言い方をするんですが、編者の序文では、「遅れる」という意味でもあると書かれています。なので、邦題の印象から受ける、年齢の問題や老化を指しているわけでもないんです。ピークを経た作家の変化をとらえようとしている議論だと言えるでしょう。サイードに言わせると、「まぎれもなく現在の中に存在しながら、奇妙なことに現在から離れている」状態であり、その離れ方は同時代の流行に迎合しないということです。現在にいて、現在をわかっているから、あえて距離をとる。まさに「抵抗」です。

 サイードが取り上げているのはベートーヴェンで、彼は徐々にある意味時代遅れになったとも言えるし、時代を超越した独自性を持つスタイルを確立したとも言える。ヒット作や名作があったうえでその後も注目されるのは、流行のスタイルをつくり続ける作家ではなく、時代と距離を置くことで意味を生む、言わば問題作を生み出す作家です。坂本さんは、ある意味では麻酔的に大衆を魅了する才能をもった音楽家だと思うんですが、それを完全にやめたのが『async』で、病を得てということではありますが、『12』はその必然的な流れのなかでできた作品じゃないですか? 「この人はなぜ、いま自分たちから離れたものをつくっているのだろう」と考えさせられている気がします。アートにおける、作品を通じた会話って、本来的にそういうものですよね。ここには新旧はないと思います。

 そうですね。当初「日記」「スケッチ」というキーワードを聞いたとき、ロラン・バルトが水彩画を描いていたような、ある種の「アマチュアリズム」との関わりを考えました。当然坂本さんはプロなんだけれども、自身の愛に基づいて何かを集めたり、つくったりする「アマチュア」のような精神性、それがひとつの「抵抗」のメッセージのようにも思えました。

松井 『音楽図鑑』とか僕も大好きですけど、坂本龍一が大衆性を得ている状況はすこしボタンの掛け違いにも思えて、現在の坂本さんは本来あるべきメディア・パフォーマンスの時間を過ごしているように思います。

 最近あらためて『B-2 Unit』(1980)をよく聴いています。このアルバムは、1980年代に人気絶頂にあったYMOを仮想敵として「音楽の解体」に挑んだ坂本さんのソロアルバムですが、今回の『async』や『12』は、音楽をSとNに解体したものから「音楽」を再発見するような作業ですよね。違うアプローチでも、40年以上、音楽それ自体への問いを持ち続けている、もしくはそこに回帰していることが興味深いです。

『B-2 Unit』の表紙

松井 坂本さんとも関係の深い李禹煥さんは、半世紀ものあいだ「もの」自体のことをテーマにしているけれど、近年社会が再びその議論に回帰している。李さんが主題にしてきたことは、「もの」から自立する「虚像」への批判です。1960、70年代においては、テレビに象徴されるメディア技術や情報への批判でした。現代においては、インターネット空間に象徴される情報化された世界こそがリアリティになっているわけで、これを前提に「もの」とは何か、真実というか、倫理が問われています。

 芸術理論でも、マルチスピーシーズ人類学や新しい唯物論が注目されていますが、考えてみれば、どの時代においても、技術や社会が変化しても、ものごとの根源的な存在に関するシンプルな問いって、普遍的だと思うんです。だから、なんか循環していますよね。こういうことを通じて、芸術は予言的だというのも間違いでは無いけれど、20世紀的な右肩上がりの幻想の喧伝がいよいよ終わっている自覚でもあるんじゃないでしょうかね。答えになってないですが、李さんも坂本さんも、パラダイス・ロストから始まって、こうした議論におけるベテランとして未だに活動されていて、なんか明るいですよね(笑)。

 「明るい」というのはいい締めですね(笑)。李さんが「もの」そのものに向かったように、坂本さんも「音」そのものに向かって、そのふたりが引き寄せられるように、今の時代に新しく「出会って」いるのも面白いですね。

松井 李さんが坂本さんに連絡をとるきっかけとなった作品は、『The Revenant』(2015)だそうですね。クラシックを中心に李さんは、すごい音楽ファンというか、マニアなんですが、もちろんこれまでも坂本さんの音楽を聴いてたそうですが、映画のなかで、環境音と音楽の区別がつかないようなところに反応したそうです。

『The Revenant』の表紙

 『The Revenant 』については「映画の中にある情景と音楽の区別がつかないということが、皮肉ではなく嬉しかった」と坂本さんがおっしゃっていましたが、『The Revenant』『async』『12』はどれも、音同士の関係を時間軸のなかにリニアに配置して、最初から最後まで聴かせるような音楽ではないし、だからといって「環境音楽」のようなものでもない。人為に依るわけでも、偶然に依るわけでも、自然に依るわけでもない音楽。形があるのかないのかよくわからないところに魅力を感じます。

松井 20世紀前半にはモダニズムとして主題になった「アンフォルム」があって、言わばそれを否定的にとらえる現在、デジタルメディアの時代における「アンフォルム」が問われていると思います。そうした命題に取り組むことは、これからの作家にとって大きな挑戦となるはずです。人類は情報への関心に傾いていますが、情報も本来的には「もの」との関係性です。ここでいう「もの」とはもはや事物ではなく、仮想空間も含めた「自然」のなかで考えられるべきでしょう。李さんは、「AIが人間的限界を宿命とするに対し、当の人間は、自然の属性によって、絶えず未知の生命である」と書いています。なんだかこのあたりに、21世紀のもの派があって、坂本さんもこれに近い考えをもって活動している気がします。大きなことを言うと、人類が「もの」への関心を失うとき、アートもまた終わるのだと思います。