客観的な視点からとらえた、李の芸術 ジルケ・フォン・ベルスヴォルト=ヴァルラーベ=著 水沢勉=訳 『李禹煥 他者との出会い─作品に見る対峙と共存』
「もの派」の代表作家であり、評論活動も旺盛に行ってきた李禹煥。戦後の現代美術史を語る上で欠かせない巨匠を、まさに「もの派」の隆盛期である1970年生まれのドイツの美術史家が論じる。これまで李の作品に焦点を当てた本格的論考がほとんどなかったのは日本現代美術界の手落ちというほかないが、理論的に構築された作家の言葉がどうしても作品についてまわる状況があったことを思えば、仕方のないことなのかもしれない。その点、この著者はあくまで自分の鑑賞体験を基礎とし、一回限りの特別な「出会い」のなかで作品に関心を払っているため、作家の言葉にとらわれすぎない柔軟かつ客観的な視点を確保しているように見える。かといって作家の言葉をないがしろにするのではなく、李の芸術観の根幹を成す「他者」の概念については、そのバックボーンとなるエマニュエル・レヴィナスの思想を参照し、石や鋼板といった素材の選択、作品と鑑賞者の関係にいかに反映されているかを細やかに検証している。
本書では、1968年から半世紀近くに渡って展開される「関係項」、筆触の反復によって構成される絵画作品「点より」「線より」、切り詰めた要素で一つの到達点を示した「照応」という主要シリーズを、年代ごとに手際よく分析している。評価すべきなのは、東アジア的な特質(ともすればオリエンタリズム)に帰結しがちだった従来の李禹煥観を慎重に回避し、同時代の欧米の現代美術の流れに即して作品を読み解く開かれた視点だろう。イタリアのアルテ・ポーヴェラ、あるいは抽象表現主義以降のアメリカ現代美術(リチャード・セラ、カール・アンドレ、ロバート・ライマンなど)との比較検証は、彼らと李の共通点/差異を丁寧に抽出することに成功しているし、射程の広い「反復」の概念を実作に沿ってとらえ返すためのヒントも提供している。
欲を言えば、いかにも優等生的な博士論文風論述に留まらず、作家の言葉からさらに逸脱したような解釈も展開してほしかった。比較検証を裏付ける、同時代の作家間の具体的な影響関係の有無も気になるところだ。ともあれ、作品への程よい距離感をもった初の本格的論考が登場したのは喜ばしいことだ。現在の李の国際的評価や、もの派の再考においても参照されるべき一冊であることは間違いない。李の主要著書で、かつて田畑書店から、のちに版を改めて美術出版社から刊行された『出会いを求めて―現代美術の始源』も、新版として『余白の芸術』『時の震え』とともにみすず書房から刊行されているので、あわせて読みたい。
(『美術手帖』2016年7月号「BOOK」より)