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坂本龍一ロング・インタビュー。あるがままのSとNをMに求めて

坂本龍一の新アルバム『12』を記念し、雑誌『美術手帖』2017年5月号の坂本龍一特集より、冒頭を飾った坂本龍一のロングインタビューを公開。坂本龍一が考えるS(サウンド)とN(ノイズ)、そしてM(ミュージック)とはなんなのか? 17年のアルバム『async』の制作のほとんどを行ったというニューヨークで坂本が語った言葉に注目。

聞き手・文=松井茂(詩人・情報科学芸術大学院大学[IAMAS]准教授) All photos by GION

坂本龍一 

──ワタリウム美術館での展覧会が始まります。展示の中心は、8年ぶりの新譜『async』による5・1chのサウンド・インスタレーションです。

坂本 『async』でしたかったことは、まずは自分の聴きたい音だけを集めるということでした。あまり家から出ないので、雨の音が鳴っていると嬉しくて、毎回録音してしまいます。今回の制作はそういうところから始まって、ただ「もの」が発しているだけの音を拾いたいと思った。コンタクトマイクでいろいろな音を聴いて、楽器以前の「もの」自体をこすったり叩いたり、という感じでした。そういう意味では、鉄板を買ってきて、自分で切り刻んで音を出してみようとか考えたのですが、実際には怠け者なので、重たいからやらなかったんです(笑)。そこで銅鑼やシンバルを買ってきてこすったりしていました。

 そうしているうちに、1970年の大阪万博の際に、作曲家の武満徹がプロデュースした鉄鋼館に展示されていた彫刻家のフランソワ・バシェの音響彫刻や、ハリー・ベルトイアの楽器のことを思い出したのです。それでバシェの音響彫刻を、実際に京都市立芸術大学で叩かせてもらいました。ベルトイアの音は、ミニマルでとても好きなのですが、調べてみたらマンハッタンのミュージアムにあって、これも叩かせてもらいました。最初の4ヶ月くらいは、そんなふうに音の収集をして、自分だけで面白がって聴いていました。なかなかいいものだって(笑)。

 そうやって音を収集し、S(サウンド)やN(ノイズ)──かつて両者は対立項だったけど、いまは一緒になっちゃったと言ってもよいと思いますが──を聴いていると、Mが、ミュージックが足りないということに気がついたのです。自分が聴きたい音には、やはりMが必要だという欲求が出てきたんですね。なんらかのMが入ってないとダメだということを自覚して、Mの要素を盛り込むことを始めました

 『async』はそういう成り立ちなので、ライブで再現して聴かせるという内容にはなっていないですね。音を聴く理想的な環境で耳にしてもらいたい。僕が聴きながら制作したのと同じ環境で、音の中に浸ってほしいと思っています。

「もの」そのものとの出会い

──楽器の音より、「もの」それ自体の、根源的な音に接近した理由とは?

坂本 影響があるとしたら美術家の李禹煥の作品、もの派への関心だと思います。いままでは、全然そういう気配はなかったと思うのですが(笑)。李さんの作品には強く惹かれるものがあります。僕は、1970年に東京藝術大学音楽学部に入学しましたが、学生のときは、ほとんど美術学部に出入りしていました。友人も美術の人たちばかりで、この頃から李さんや高松次郎1 *が大好きでしたね。

 高松さんの授業にも忍び込んで、美術の学生に混ざって、課題で針金のオブジェをつくったりしていたわけです。高松さんが多摩川の岩に数字を書いた《石と数字》(1969)なんかが大好きだったんです。そういう意味では、意識があの頃に戻っているのかもしれない。それでいま、ガラスの上に岩がドーンと置いてあったりする李さんの「関係項」シリーズのような感触の音を出したいという気分になっている。あの作品からはものすごくMを感じます。そういう音を求めて、コンタクトマイクをつけて「もの」をこすったりしています。ずいぶんプリミティブになっちゃってますね(笑)。

 もともとは、病気になった2014年にソロ・アルバムをつくろうとしていて、スケッチをしていたのですが、今回はその辺のスケッチを全部捨てて、ゼロからのスタートでした。今回の『async』が8年ぶりのアルバムですが、ほとんど10年に1枚のペースでしょ。この先75歳まで生きていられるとして、あと1枚つくれるかどうかなので、だったら本当に好きなことをやりたいと思いました。それは、ポップスでもないし、毎日のように弾くのはバッハですけど、聴くのはドローン系。もちろん若者の真似をする気もない。そこで「もの」を叩いたり、音を出して試行錯誤していました。

スタジオ内にある銅鑼。「もの」から出る音へのプリミティブな興味に立ち返っているという坂本のスタジオには、電子楽器と、叩く、こするなどして音を出す体鳴楽器が多く見受けられる

音楽とインスタレーションのあいだ

坂本 今回のアルバムのテーマのひとつとして、始まりがあって終わりがあるようなひとつの時間ではなくて、複数の時間が同時に進行しているような音楽はできないかということを考えました。いちばんわかりやすい例としては、作曲家のジョルジュ・リゲティの《ポエム・サンフォニック》(1962)という、メトロノームを100台使う作品です。この作品は、複数の時間が同時進行していて、中心となるテンポはありません。世界中を見渡しても、こういう音楽はあまりないですね。民族音楽にしても中心となるテンポがあります。こうした複数の時間を持つ作品は、終わりがない

ように設計されているのですよね。始まりも終わりもないので、いつまでも続けられるのです。アルバムに収録するには、どこかで終わらなければいけないから、便宜的に終わっているのですけど……。永遠に「繰り返し」が起きないような音楽が、ここのところ好きですね。

──もの派は、瞬間的なハプニングを作品として固定することからインスタレーションを展開してきました。突飛かもしれませんが、もの派から音楽における演奏を考えたとき、指揮者のセルジュ・チェリビダッケを想起します。彼はどんな曲を指揮しても、一般的な演奏の1・5倍くらい遅い。音楽は流れない。むしろ時間が滞留します。結果として楽曲の時間が解体して演奏は無時間的というか、時間芸術に抗うような、サウンド・インスタレーションに近づいていく気がします。グレン・グールドが2度目に録音したバッハの《ゴルドベルク変奏曲》(1981)にも同様のことが、言えるかもしれません。『async』におけるMの要素にも、こうした演奏に近い、「滞留する時間」が設計されているような印象を受けます。

坂本 それは前のソロ・アルバム『out of noise』(2009)をつくったときに強く意識したことですね。アルバムを出してから、ピアノだけのツアーをしました。そのときに強く感じたことは、ピアノは「もの」だということなんですよね。音楽としてではなく「もの」としての響きを聴かせたいと思いました。音楽を抽象的なところから見ると、座標軸上に点が打ってあって、時間が流れていき、それを美的に構築していくこと、と言える。でも違う観点からみれば、ピアノは「もの」の集積でもある。響きも「もの」の音だと思って、《Merry Christmas, Mr.Lawrence》(1983)みたいな曲でも、ゆっくりとモヤーンと反響させて弾いたら心地良くて、それでゆっくりと弾き始めました。ロンドンのコンサートで作曲家の藤倉大くんが聴きにきて、「なんであんなに遅く弾くんですか?」って怒られちゃいました(笑)。「いまはそういう気分なんだよ」って言ったのですが、ピアノを弾くということでもそうなるわけで、響きを聴こうと思ったら、演奏は遅くならざるを得ないんですよね。チェリビダッケの指揮は、次の小節にいかないような、止まっちゃってるようなね、音楽が落っこっちゃいそうな、進んでいかない感じですが、僕は大好きですよ。響きを聴こうと思ったらどうしてもそうなっちゃう。

 だから音楽には、作曲したり、演奏したりといった要素があるわけですけど、「聴く」ことも音楽だっていうところに到達しないといけないわけです。やっと10代で知り合ったジョン・ケージの思想に触れた(笑)。「聴く」ということがすこしわかってきたかな。いまは弾くよりも、「聴く」ことがとても大事だと思っています。今回のアルバムも「聴く」ことをとても大事にしているかな。

 そういう意味でも、やはり1970年前後、18歳頃の意識に戻っているのかも。大学に入ったこの時期の問題意識は、ヨーロッパ近代の音楽システムからいかに離れるか、離陸できるかということでした。簡単に言うと、100人の演奏者がいてみんな同じ時間で進行している──もっともこれは西洋音楽に限らない、人間の逃れ難い性向かもしれませんけど──、そのことに抵抗感を持っていたわけです。それで「違うやり方を試したらどういう音楽ができるのか?」と考えて、大学に入ると民族音楽学者の小泉文夫に民族音楽を学び、シンセサイザーなどの新しい楽器とともに電子音楽にも触れるようになりました。

一人で音を出しながらマイクで録音することも少なくないという

協業(コラボレーション)から気づく

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