排除アートの暴力と親和する観客の倒錯を問う、放置プレイと二枚舌の倫理
「あんまり言うことないんですよね」。あー、じゃあTwitterの切り貼りにしましょうか。「そうですね、そこから引用してもらえれば」。喋ったことにして。それでは今日はこれにてありがとうございます(笑)……という冗談から、小寺創太へのインタビューは始まった。後述する個展の閉幕直後だ。
インタビューにせよ、とかく対話体の文章は人気がある。〈聞く・答える〉という体裁には、じかに口から話されたような言葉、赤裸々な態度が期待される。「好きな色は?」「行ってみたい国は?」と、インタビュイーが率直な感情から回答するように演出する質問がお約束なのもそのせいだ。
「今回の作品を極めてベタに愚直にとらえるなら、『みんな!考えよう責任を持とう!』ということを作家は言っているんですけど……その『みんな!』っていう発話は、鑑賞者を暗に、そしてあからさまに内に取り込む全体主義的な構造を担っているんですよね。『感動した…!』とか『共感した』という無責任な言葉を誘発するんです。この作品を『排除アート批判』だと安直に読むことは、その奥に潜んでいる批判者の政治性を象徴化、美化、忘却してしまうことで、それは『排除アート』の暴力とも親和的と言ってしまってもいい。思い返してほしいですよね、台座を手配して自分からその上に乗っている、この展示が自作自演だっていう事実を……」(2022年4月6日のツイートを口頭の発言風に捏造。ill派 @kusonikomioden)。
マゾヒスティックな偽善のマゾヒスティックな戯画化
発端からしてTwitterだった。Token Art Center(東京)で行われた個展「調教都市」の会期初頭、小寺がこうツイートした──「今回の作品ヒロイックに受け取られすぎじゃない?もっと無責任な偽善/偽悪的な作品だとも思うけど」(3月7日)。
「調教都市」のモチーフは、排除アートと放置プレイだ。排除アートとは、路上生活者が滞在できないよう、寝転がりづらい凸凹や斜面を意図的につくった構造で、非路上生活者にはそうとわからないよう、一見パブリック・アートや洒落たデザインにカモフラージュしたものだ。建築史家の五十嵐太郎はこれを「都市の不寛容」と批判する(*1)。「調教都市」で小寺は、その排除アートを模した構造物(美術作家の吉野俊太郎に制作委託)に、BDSMプレイで使われるボンデージ衣装を着て、展示の開場時間中ずっと横たわる。加えて階上の展示室には、実際の排除アートに小寺が同様にボンデージを装着した姿で寝転がる写真作品と、マゾヒズムに関わるいくつかの引用が掲示されている。この上下階にわたる展示会場の隅々には、監視カメラが設置されている。